第3章 たくましい抱擁

めまいがして、国分凛は疲れた声で言った。

「申し訳ありません。家庭のことですので、お答えできません」

人波を抜けようとしても、記者たちは隙間なく取り囲む。

混乱の中、背中を誰かにぐいっと押された。体勢を崩し、倒れかけた――その身体が、硬い胸に受け止められる。

国分凛は愕然と顔を上げた。

深く、複雑な目。

いつの間に来たのか、国分礼二がそこにいた。

大きく力強い手が腰を支え、そのまま彼女を抱えるように庇う。

無数のカメラの前でも平然として言った。

「妻が体調を崩してね。病院に連れてきただけだ」

記者が食い下がる。

「国分社長、では女性とホテルに入ったという噂は? 離婚は?」

国分礼二は腕の中の国分凛を見下ろし、抱き寄せる力を強めた。

「しない。妻とはうまくいっている」

そう言って、目だけで国分凛に合図する。

国分凛は硬直したまま、黙って頷くしかなかった。

「妻を休ませたい」

国分礼二はそれ以上答えず、半ば抱えながら病院へ戻った。

人のいない非常階段へ入ったところで、薄い影が二人の前に現れる。

名取心美だ。

国分礼二はすぐ手を離し、表情から温度が消えた。

「さっきのは、株価に響くのを避けるためだ。あいつが変なこと言ったら困る」

名取心美の目に一瞬、陰が走る。だがすぐ無垢な笑顔に塗り替えた。

「礼二、凛おねえちゃんはあなたの奥さんだもん。気遣うのは当然だよ」

国分礼二は頷き、国分凛へ向き直って眉を寄せる。

「心美は本当に分かってる。今回のことは水に流す。これからは心美を狙うな」

国分凛の痛みはもう麻痺していた。もうすぐ去る――そう思うと、声は冷える。

「これから、なんてない」

国分礼二が眉をひそめる。

「……どういう意味だ」

国分凛は答えない。

名取心美が国分礼二の袖をつまみ、委屈そうに揺らした。

「礼二、凛おねえちゃん……私に怒ってるのかな」

国分礼二は国分凛を一瞥し、宥めるように言う。

「ない。あいつはそういう性格だ。少しすれば落ち着く」

国分凛の胸に苦味が滲む。

その通りだ。揉めればいつも折れてきたのは自分だった。

性格じゃない。愛していたからだ。何度でも許したかったからだ。

でも、今回は違う。

今回は、もう死んだ。心が。

「用がないなら、帰ります」国分凛は小さく言って、背を向けた。

「外には記者がいるだろ。どう帰る」国分礼二が思わず口を挟む。

「裏口から出れば避けられる」国分凛は淡々と言い、二人へ目を向けた。

「……邪魔しません。あなたと名取さんで、ごゆっくり」

国分礼二が何か言いかけたが、名取心美が彼の腕を引いた。

「礼二、私も病室で休みたい……」

国分礼二は国分凛の背中を一瞬見て、結局目を逸らし、名取心美を支えて病室へ向かった。

「分かった。送る」

国分凛は小さく苦笑し、病院を出ると弁護士事務所へ電話をかけた。

「離婚協議書を作ってください。できるだけ早く……はい、私は財産放棄で」

病室では、国分礼二が包帯の巻かれた名取心美の手を大事そうに包み、ふうっと息を吹きかけている。

名取心美はその横顔を見つめ、堪えきれずに身を寄せた。唇を重ねようとした、その瞬間――

国分礼二は何かを感じ取ったように、反射的に顔を逸らす。

キスは頬に落ち、空気がぎくりと固まった。

国分礼二は立ち上がり、言い訳みたいに言う。

「……記者に撮られたらまずい」

名取心美の瞳に一瞬、怨みがよぎる。すぐにいじらしげな表情へ塗り替え、細く息を吐いた。

「礼二……たまに思うの。あの時、おばあちゃんが私たちを邪魔しなかったら……あなたのお嫁さん、私だったのかなって」

国分礼二は黙って「……ああ」とだけ答えた。

胸の奥に、理由の分からない苛立ちが湧く。

愛しているはずなのに――なぜ、さっき彼女が近づいたとき、避けた?

この親密さが、なぜ妙に居心地が悪い?

名取心美は彼の腕に絡み、甘く囁いた。

「もうおばあちゃんはいない。誰も邪魔できないよ。……まだ私を愛してるよね?」

国分礼二は言葉に詰まる。

名取心美はすぐに目を潤ませ、すがりついた。

「礼二、一生守るって言ったじゃない……まさか、私を捨てないよね?」

国分礼二は慌てて肩を抱く。

「捨てるわけない。ずっとそばにいる」

「じゃあ……凛おねえちゃんとは離婚する?」名取心美が無垢な顔で見上げた。

国分礼二は答えられなかった。

国分凛に感情などない――はずなのに、離婚を考えたことがない。理由は自分でも分からない。

彼は質問を避けるように立ち、襟元を整える。

「休め。俺、用がある。改めて来る」

名取心美が返事をする前に、国分礼二は病室を出ていった。

ドアが閉まった後、名取心美の目はゆっくり冷えていく。

「凛……覚えてなさい。礼二は、私だけのもの……!」

国分礼二は別荘へ戻り、苛立ちままネクタイを乱暴に緩めた。

家中探しても国分凛の姿がない。

本当に、怒ったのか?

スマホを取り出し、電話をかけようとした、そのとき。

チャイムが鳴った。

国分凛だと思い、勢いよくドアを開ける。

立っていたのは郵便配達員だった。

「国分凛様のお宅でしょうか。国際便のお届け物です。署名をお願いします」

受け取った封筒には、フランスの有名建築設計事務所のロゴ。

国分礼二は眉をひそめ、サインして封を閉じる。

表紙をめくると、英字が目に入った。

OFFER OF EMPLOYMENT。

その紙を握った瞬間、嫌な予感が背骨を這い上がる。

――国分凛は、海外へ行くつもりなのか。

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