第4章 あなたの望み通りにしてあげる

国分礼二はそのオファーの書類を握りしめたまま、胸の奥を這い上がってくる嫌な予感を振り払えずにいた。

ソファに沈み込み、苛立ちまぎれにネクタイをぐいっと引く。視線は玄関のほうへ縫い付けられたまま。

――あの女。本気で出ていくつもりなのか。

なんで。

最初にしつこく結婚したがったのは、あいつだろ。なのに今さら、三か月でさっと消えるだと? 俺、国分礼二を何だと思ってる。

カチャ。

鍵が回る音。国分凛が外から入ってきた。

表情は凪いだまま。リビングにいる礼二の陰った顔を見ても、ちらりと一度だけ視線を流しただけで、そのまま通り過ぎようとする。

――無視、だと?

完全に存在をないものみたいに扱われた瞬間、礼二の腹の底で火がはぜた。

彼は勢いよく立ち上がり、数歩で凛の前へ回り込むと、手にしていた書類を茶几へ叩きつけた。

「これは何だ」

怒りを押し殺した冷たい声。けれど眼だけは、燃えている。

「凛。何を企んでる」

凛の視線が書類へ落ちる。

「ヘッドハンターから来たメールよ。とっくに忘れてた。……何? 国分社長は、私が仕事を探すことまで管理するつもり?」

「お前……!」

そのふてぶてしいほどの無関心が、礼二の神経を逆なでした。

「とぼけるな。フランスだと? 三か月経ったら荷物まとめて出ていくつもりで、最初から段取りしてたんだろ」

凛が顔を上げる。澄みきった冷たい瞳が、礼二の怒りの眼と正面からぶつかった。

「国分社長は、ずっと私が消えるのを望んでたんじゃないの? 今さら叶えてあげようとしてるのに、なにを不機嫌そうにしてるの」

針みたいな言葉が、礼二の胸のど真ん中をちくりと刺した。

……そうだ。喜ぶべきだ。三年間嫌ってきた女が、ようやくいなくなる。クラッカーでも鳴らして祝うべきだ。

なのに、胸に溜まるのは、言葉にならない息苦しさと苛立ちだけ。

凛の波ひとつない顔を見ているだけで、火はますます勢いを増す。礼二は口が滑った。

「国分凛、忘れたのか。お前がどうやって国分家に入ったと思ってる。今さら力がついたからって、人を蹴り飛ばして終わりにできるとでも?」

凛はまぶたを伏せた。視線は、自分の手へ。

さきほどぶつけた箇所に、青紫の痕が残っている。白い肌に、やけに生々しく浮き上がっていた。

けれど目の前の男は、玄関から今までずっと、そのオファーのことばかり。凛の手など一度も見ず、痛いかと尋ねることもない。

胸の奥に残っていた最後の熱が、すうっと冷えていく。

……もういい。

心に自分がいない人間と、何を言い争う必要がある。

礼二が命令口調で言った。

「その話は後だ。今から病院へ行って、心美に謝れ」

凛は、冗談でも聞いたみたいにゆっくり顔を上げた。

「……謝る?」

「当たり前だ。お前が突き飛ばして、心美は手首を捻った。謝らない理由がどこにある」

「私は突き飛ばしてない」

一語ずつ。声は大きくないのに、やけに鮮明だった。

「俺が見た。まだ言い訳する気か?」

礼二の我慢は完全に尽きた。

「凛。俺、お前がこんなに性格が悪いって知らなかった。心美は画家だぞ。手がどれだけ大事か分かるだろ。そんなに心美が邪魔か? そんなに許せないのか」

責め言葉が、刃みたいに次々と凛の心へ突き刺さる。

――昔なら。泣いて、悔しくて、必死に弁解したかもしれない。

でも今は、ただ滑稽だった。

凛は礼二を真っすぐ見返す。

「国分礼二。どの目で私が突き飛ばしたって言ってるの? 名取心美だから、彼女が言うことは全部信じるの? 涙を一滴落としたら胸が痛むくせに……じゃあ私は?」

凛は、青紫になった手をぐっと持ち上げ、礼二の目の前に突き出した。目元は赤いのに、声は冷えたまま。

「私は、支えようとしてこうなった。見えないの? それとも、あなたの目には心美しか映らない? 他の人間は、最初から存在してないの?」

礼二の視線がその手に触れた瞬間、瞳孔がわずかに縮む。顔に一瞬だけ、驚きが走った。

――気づいていなかった。

その沈黙を見て、凛は自嘲するように手を引っ込める。心は、底へ落ちていった。

「謝りに行かない」

吐き捨てるように、凛は言う。

「私は何も間違ってない」

三年間で初めての、はっきりした拒絶だった。

礼二の顔色がみるみる悪くなる。男の自尊心が、その一言を挑発として受け取った。

「……いいだろ。いい、上等だ」

怒りが極まって、逆に笑いが漏れる。

「凛。後悔するなよ。よそ者のために、俺とここまでやり合うってことだな?」

「よそ者……?」

凛がその言葉をなぞる。可笑しくて仕方がない、という目。

「あなたの中で、いったい誰がよそ者なの」

それだけ言うと、凛は礼二を見ようともしないまま背を向け、疲れた足取りで階段へ向かった。

礼二は、だだっ広いリビングに一人取り残される。胸が荒く上下し、呼吸がうまく整わない。

凛の最後の問いが、頭の中で反響し続けた。

焦燥と、言いようのない恐怖。

それが初めて、礼二の心臓をがっちり掴んだ。

「くそっ……!」

礼二は苛立ちのまま茶几を蹴り上げ、スマホを掴む。名取心美へ発信した。

……

病院。名取心美は退屈そうにスマホを眺めていたが、礼二からの着信が表示された瞬間、ぱっと弱々しい表情に作り替え、電話を取った。

「礼二……今、来てくれない? 一人だと怖くて……」

礼二は少し沈黙し、結局答える。

「分かった。すぐ行く」

通話が切れた途端、心美の顔から脆さは消えた。口元に浮かぶのは、勝ち誇った冷たい笑い。

「凛。私と張り合うには、まだ早いのよ」

三十分後。礼二が病室へ入ってくる。

心美はすぐに目を潤ませ、怪我をしていないほうの手で礼二の袖を掴んだ。

「礼二……凛おねえちゃんと、喧嘩したの? 私のせいだよね……」

「お前のせいじゃない」

礼二はベッド脇に腰を下ろすが、顔つきはまだ硬いままだった。

心美はそっと身を寄せ、肩に頭を預ける。甘い声で宥める。

「礼二、怒らないで。凛おねえちゃんはあなたの奥さんだし、夫婦なら喧嘩くらいするよ。私、手が治ったら私から説明する。きっと凛おねえちゃんも許してくれるから」

体温が触れ合い、馴染みの香りが鼻先をくすぐる。

――いつもなら、心地よかったはずだ。

なのに今は、妙に落ち着かない。

礼二は反射的に体をこわばらせ、気づかれないように少しだけ身を引いた。

その距離を、心美は敏感に察した。胸の奥がひやりと沈む。笑みがわずかに引きつる。

「礼二……私に、前みたいに優しくしてくれなくなった?」

礼二は眉を寄せる。

「考えすぎだ」

「でも、今……避けた」

心美の涙は、命令に従うみたいにすぐ溢れた。悔しそうに見上げてくる。

「礼二、ちゃんと言って。もしかして……凛おねえちゃんのこと、好きになったの?」

――国分凛を?

虚栄で、意地が悪くて、恩知らずの女を?

「ありえない!」

礼二はほとんど叫んでいた。心美に向けた否定であり、自分自身への言い聞かせでもあるみたいに。

「俺が、あいつを好きになるわけがないだろ!」

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