第5章 期限が迫る
国分礼二が、国分凛を愛するだなんて。
そんなはずがない。
苛立ちを抱えたまま病院を出た彼は、会社にも別荘にも戻らず、ひとり車を走らせて川沿いを当てもなく流していた。
そのとき、スマホが震える。表示された名前は「母」。
国分礼二が通話を繋いだ途端、国分理恵の棘だらけの声が突き刺さった。
「いまどこにいるの。あんたの『いい奥様』、ほんと最近ますます腕を上げてくれてるわね!」
国分礼二は眉を寄せる。
「母さん、今度は何だ」
「今度は何だ、ですって? さっき家の使用人から聞いたのよ。国分凛が最近こそこそ、国際電話ばっかりしてるんですって。外に男でも作ったんじゃないの? 国分家の面子が丸潰れよ! だから言ったのよ、ああいう貧乏くさい家の女は根っこが下品で、ちょっと金を持たせたら自分が何者かも分からなくなるのよ!」
国際電話。
国分礼二の脳裏に、一通の封筒がよぎる。あのオファー。
「……俺が帰って確認する」
適当に返し、彼はそのまま通話を切った。
母の威圧など、耳に入っていない。
頭の中を占めるのは、国分凛が「いなくなる」かもしれないという感覚だけだった。
一方、国分凛は国分理恵からの電話を切ったところだった。
姑の刺々しい非難も脅しも、今さら波風すら立たない。心は凪いだまま。
国分家から与えられたものを全部取り上げる?
別に構わない。そもそも彼女は、それを「自分のもの」だと思ったことがなかった。三年間、カードで切った支払いも、使った金額も、すべて帳簿につけてある。出ていくとき、国分家が自分に費やした金は利息をつけて返す――そう決めていた。
国分家との唯一の繋がりは、国分家の大奥様にした約束だけ。
そして今、その期限が迫っている。
もう、去る頃だ。
国分凛が別荘に戻り、扉を押し開けた瞬間――玄関で足が止まった。
リビングのソファに、国分礼二が険しい顔で座っている。その隣には名取心美。
新品のシャネルのワンピース。手には限定のバーキン。名取心美は国分凛の姿を見つけると、ぱっと立ち上がり、無邪気な笑みを貼りつけた。
「凛おねえちゃん、おかえり! 礼二が心配して、私も一緒に連れてきてくれたの。病院のこと、ちゃんと説明したくて」
国分礼二が冷ややかに問う。
「どこ行ってた」
「少し外を歩いてただけ」国分凛は淡々と靴を脱ぎ、室内へ上がる。
「凛おねえちゃん、礼二に怒らないで……」名取心美が近づき、親しげに腕へ絡もうとする。
だが国分凛は、ほんのわずか身体をずらして避けた。
宙に取り残された名取心美の手が固まる。彼女は一瞬だけ気まずそうに目を泳がせ、すぐさま泣きそうな顔で国分礼二を見る。
「礼二、ほら……凛おねえちゃん、本当に怒ってるみたい。私のせいだよね。私がいなかったら、ふたりも喧嘩しなかったのに……」
そう言いながら、ふと思い出したように鞄を持ち上げ、国分凛へ見せつける。
「そうだ、凛おねえちゃん。これ、可愛くない? 礼二がね、手を怪我したお詫びだってプレゼントしてくれたの。ほんと優しいんだよ」
勝ち誇ったその顔が、滑稽だった。
国分凛は視線すらくれない。ただ国分礼二を見て、静かに言った。
「疲れてるの。休みたい」
「国分凛!」国分礼二の声が荒くなる。「その態度は何だ。心美がわざわざ来てくれてるのに、客に対してそれか?」
「客?」国分凛は二人へ視線を巡らせた。「国分社長って、客を寝室に連れ込む趣味があったのね」
――三年前。偶然、彼が名取心美を部屋へ連れていくところを見てしまった、あの夜のこと。
国分礼二の顔色が一気に青黒くなる。
そのタイミングで、彼のスマホが鳴った。会社の秘書からの緊急連絡。
国分礼二は国分凛を睨みつけ、怒りを押し殺すように名取心美へ言う。
「待ってろ。書斎で仕事の処理をする」
書斎へ消える足音。
リビングには女が二人だけ残り、空気が一瞬で張りつめた。
名取心美の純真な仮面がすっと落ちる。彼女は国分凛の前まで歩み寄り、声を落とした。
「あんた、自分が邪魔だって、よく分かってるみたいね。さっさと消える気でしょ」
国分凛は冷えた目で返す。
「安心して。国分家若奥様の席は、すぐあなたに譲るわ。そんなに焦らなくていい」
あまりに凪いだ返しが、名取心美の神経を逆撫でしたのだろう。彼女は唇を噛み、視線を横へ滑らせる。
装飾棚の上。高価そうな青花の壺。
名取心美の口元が、ゆっくり吊り上がった。
「おねえちゃん、悔しいのは分かるけど、だからって……」言いかけたまま、彼女は突然、手を伸ばして壺を押した。
国分凛は意図を見抜いたが、動く気にすらならなかった。
こんな安っぽい芝居、見飽きている。
ガシャン——
壺が床に叩きつけられ、粉々に砕け散る。
次の瞬間、書斎の扉が乱暴に開いた。
国分礼二が飛び出してくる。床一面の破片と、震えるふりをして立つ名取心美を見た途端、彼の表情が氷のように沈んだ。
「凛! また何をやらかした!」
名取心美はすぐ彼の胸に飛び込み、怯えた顔で震えながら言う。
「礼二、違うの……凛おねえちゃんのせいじゃない。わ、私が……ただ、凛おねえちゃんが言ったの。この家の物は、一つも私に残さないって……」
火に油。
国分礼二の怒りが一気に燃え上がる。
彼は国分凛の冷え切った顔を睨み、怒鳴りつけた。
「もういい! 今すぐ心美に謝れ!」
国分凛は、目の前の茶番を見つめたまま、ただ深く疲れていくのを感じていた。
もう、限界だった。
「謝らない。私は何もしてない」
それだけ言うと、彼女は二人を見ることすらやめ、重い身体を引きずって二階へ上がっていった。
背後から聞こえるのは、名取心美のか細いすすり泣きと、国分礼二が怒りを抑えながら宥める声。
夜が更け、別荘は不気味なほど静まり返った。
国分凛は灯りをつけないまま、ウォークインクローゼットからスーツケースを引きずり出し、寝室の床に広げる。
三年住んだ場所なのに、自分の荷物は驚くほど少ない。20インチの箱ですら埋まらない。
そのとき、階下から名取心美の声が聞こえた。わざとらしく弱く、探るような声音。
「礼二……もうこんな時間。ひとりで帰るの怖いし、手もまだ痛いの……今夜、ここに泊まっていい?」
国分凛の手が、ぴたりと止まる。
息を殺し、冷たいドアに耳を当てた。
待つ。待つ。待つ。
やがて、国分礼二の声が落ちてくる。
「……客室は下だ。使え」
バタン。
客室の扉が閉まる音。
国分凛はゆっくり床に崩れ落ち、ドアにもたれた。背中越しに冷たさが染みる。
一晩、待った。
上がってきて問い詰めるのを。喧嘩になるのを。いつもみたいに、冷たい顔で扉を開けて入ってくるのを。
――何もない。
窓の外が、黒から灰へ、灰から白へ変わっていく。
国分礼二は一度も戻らなかった。
二人の寝室には、帰ってこなかった。
その瞬間、国分凛はようやく理解した。
この三年間の独り芝居は、もう終わりにしなければならないのだと。
