第8章 刀刀血を見る

個室の空気は、国分凛のその一言で、いきなり氷点下まで落ちた。

国分礼二の連れの男たちは顔を見合わせ、気まずさで表情がひきつる。誰も、もう口を開けない。

名取心美がか弱そうに礼二の袖をきゅっとつまみ、泣きそうな声を震わせた。

「礼二……凛おねえちゃんを責めないで……私が悪いの。呼んでもらうなんて言わなきゃよかった……」

その「健気」な姿が、礼二の怒りに火をつけた。

酒が回って思考は鈍い。いま彼の頭にあるのはただひとつ――凛が仲間の前で自分の顔を潰した、という屈辱だけ。

「じゃあ何だよ。国分凛、お前さ、自分がどれだけ偉いと思ってんの?」

礼二は鼻で笑い、言葉を刃みたいに投げつける。

「ちょっと動けって言われたら動け。頼まれるのは光栄だろ」

一言一言が、ぐさりと刺さる。

――けれど、凛の心はもう麻痺していた。痛みすら、感じない。

酔って傲慢さを隠しもしない男を見つめ、ただ、滑稽で遠い存在に思えた。

「光栄……?」

凛は小さく繰り返し、唇を薄く弧にする。

「ごめんなさい。その『光栄』は私には重すぎるわ。名取さんは大事なお嬢様だもの。運転が少しでも荒かったら、驚かせちゃう」

言い捨てて、礼二の顔がみるみる青ざめるのも見ないまま、踵を返す。

こんな場所、一秒だっていたくない。

「待て!」

背後から礼二の怒号が飛んだ。

「国分凛、外に出てみろ。出られるもんなら出てみろよ!」

凛は立ち止まらない。

「今日ここから出たら、二度とあの家に戻ってくるな!」

戻れないはずがない、と礼二は思っている。

三年間――凛が逆らったことなんて、なかった。

だが凛は背中のまま、冷たく一言だけ返した。

「いいよ」

たった二文字が、礼二の自尊と支配を粉々に砕いた。

凛の手がドアノブにかかった、その瞬間。

名取心美の瞳に、焦りと暗い光が走る。

――このまま帰らせるわけにはいかない。

「凛おねえちゃん、行かないで!」

心美が突然、礼二の背後から飛び出し、両腕を広げて凛の前に立ちふさがった。涙を浮かべ、必死の顔で。

「礼二、飲みすぎただけなの……気にしないで。私が……私が代わりに謝るから……」

口ではそう言いながら、視線だけは凛の背後――洋酒が並ぶ、角の尖った低いキャビネットに縫い付けられている。

「だから、凛おねえちゃん、聞い――」

言い終える前に。

「きゃっ……!」

心美の足が「ぐきっ」と崩れ、悲鳴と一緒に身体が斜めに傾く。そのまま、鋭い角へ倒れ込むように――。

わざとらしい。

凛はもう見飽きていた。

巻き込まれるのも嫌で、反射的に身を引く。

――その刹那。

礼二の大きな影が、猛然と突っ込んできた。

彼の視界にあるのは、「怪我をしそうな」心美だけ。目の前に凛がいることなど、まるで見えていない。

「どけ!」

怒鳴り声と同時に、凄まじい力が凛の肩を叩きつけるように押し飛ばした。

破れた人形みたいに、身体が宙に浮き――制御を失って、後ろへ叩きつけられる。

「どんっ——!」

鈍い衝撃音。

後頭部が、個室の重たい無垢材のドアに激突した。視界が真っ黒になり、耳の奥でじわんじわんと音が鳴る。

痛みと眩暈が一気に全身を攫い、凛はずるずるとドアに沿って床へ落ちた。指一本、動かす力もない。

――けれど、礼二は彼女を一度も見ない。

「心美! 大丈夫か!? どこかぶつけたか!」

礼二は、ちょうど腕の中へ転がり込む形になった心美を抱きとめ、焦りと心痛を露骨に顔へ滲ませる。

心美は礼二の胸の中で「ぶるぶる」と震え、青い顔で掠れた声を出した。

「わ、私……平気……礼二……でも、凛おねえちゃんが……」

心配そうに、床に崩れたまま動かない凛へ視線を向ける。

礼二もそれに釣られて見る――が。

そこに浮かんだのは、心配ではなく、燃え上がる怒りだった。

まただ。

また同情を引くための芝居だ、と決めつける。

「国分凛! お前、どこまで性格悪いんだよ!」

心美を抱えたまま、礼二は見下ろして怒鳴りつける。

「心美を送るのが嫌だからって、突き飛ばして怪我させようとしたのか!? お前の心、何でできてんだ!」

凛の意識はぼんやり霞む。反論したいのに、口を開く力すらない。

後頭部の激痛が、今にも彼女を失神へ引きずり込もうとしていた。

凛はただ、礼二が心美を抱えて、自分を避けるように跨ぎ、大股で出ていくのを見送るしかない。

そして出ていく間際、唖然とする友人たちへ怒鳴った。

「何見てんだ! 救急車呼べ! 心美を病院に連れてけ!」

ドアが乱暴に開き、ばたんと閉まる。

世界が、すうっと静まった。

凛は必死にまぶたを持ち上げる。視界は滲み、輪郭が溶けていく。

指先を動かし、起き上がろうとしても、痛みが骨まで刺さって身体が言うことをきかない。

泣きもしない。叫びもしない。

ただ、駆けつけた店のスタッフを見上げて、かすれ声で言った。

「……お願い。119番……呼んで……」

……

病院。

国分礼二は救急外来の前の長椅子で、苛立たしげに眉間を揉んでいた。

名取心美はひと通り検査を受けたが、「驚いて」古傷の手首が少し痛むだけで、皮膚ひとつ破れていない。

医師が去ると、心美は礼二の肩へそっと寄り、柔らかく言った。

「礼二、心配しないで。私、大丈夫だよ。……凛おねえちゃんにも電話してあげて? きっと、まだ怒ってるから……」

凛の名が出た途端、礼二の顔が険しく沈む。

――あの女。

電話を切るだけじゃない。家出までして、俺に逆らう気か。

礼二は冷たく鼻を鳴らし、スマホを取り出した。口ぶりは命令そのもの。

「お前の手を傷つけて、転ばせたのはあいつだ。借りを返してもらう」

そして唇を歪める。

「いま呼びつける。来て茶も淹れさせて、退院するまで世話させりゃいい」

凛は今ごろ別荘で、俺が折れるのを待ってる――礼二はそう信じていた。

だからこそ、折れない。支配者が誰か、叩き込む。

礼二は凛へ発信した。耳元で、呼び出し音が「ツー……ツー……」と続く。

足を組み、勝ち誇った笑みで待つ。

向こうが泣きながら縋ってくるのを――。

だが、長い呼び出しの末。

自動的に切れた。出ない。

礼二の眉がぴくりと動く。

――まだ出ない?

もう一度、かけ直す。

今度は冷たい機械音声が返ってきた。

「おかけになった電話は、ただいま電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため――」

繋がらない?

胸の奥が、理由もなく「ひやり」とする。

苛立ちが、どろりと湧き上がった。

礼二はすぐ別荘の固定電話へもかけた。やはり、無音のまま。

本当に帰っていない?

じゃあ、どこへ行った。

礼二は勢いよく立ち上がり、秘書へ電話をつなぐ。

「今すぐ調べろ。国分凛がどこにいるのか、全部だ!」

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