第9章 野男と密会!
秘書からの折り返しは早かった。切羽詰まった声が受話器越しに飛び込んでくる。
「国分社長、分かりました! 奥様が……市中央病院に。救急棟に入ったみたいで……」
「……何だと?」
国分礼二の胸に燻っていた正体の知れない苛立ちは、その一言で何倍にも膨れ上がった。
救急棟?
また芝居か。いったい何のつもりだ。
「礼二、どうしたの?」
隣にいた名取心美が、彼の顔色を見て不安げに覗き込む。
礼二は答えない。上着を掴んで立ち上がると、そのままドアへ向かいながら怒鳴った。
「病室はどこだ!」
「一般病棟の903号室です」
通話を切るなり、礼二は車へ飛び乗った。アクセルを床まで踏み抜き、タイヤが鳴く。病院までの道のりを、風を裂くように突っ走った。
頭の中がぐちゃぐちゃだった。
あの女が、本当に入院? 同情を引くためか。それともいつもの手で、仮病を使って俺を折らせる気か。
そうに決まっている。そうであってほしい。
怒りが、認めたくもない小さな不安を押し潰していく。
903号室の前に着いた瞬間、礼二はドアノブに手をかけた。だが押し開ける前に、扉のガラス窓越しに「見えて」しまった。
ベッドの上には国分凛。青と白のストライプの病衣。顔色は青白い。
それでも彼女は横を向き、白衣の若い男と話していた。
男は穏やかな顔立ちで、凛を見下ろす眼差しがやけに柔らかい。手には検査結果らしい紙。
そして――凛が、笑っていた。
礼二の前では、いつも無表情か、目を伏せるだけの女が。
口元に、ほんのかすかな笑みを浮かべている。
その瞳には、礼二が見たことのない光が宿っていた。星でも灯したみたいな、眩しいほどの。
それが、目に刺さった。痛いほどに。
「――っ!」
礼二は堪えきれず、ドアを蹴り開けた。
バン——!
重い音が病室に響き、二人がびくりと肩を跳ねさせる。
「国分さん?」
白衣の男が眉を寄せ、飛び込んできた礼二の顔を見て気づいたように言った。経済ニュースで見かける男だ、と。
だが礼二は男など眼中にない。燃え上がるような目で、ベッドの凛だけを射抜く。今にも噛み殺しそうな勢いで。
「よくもまあ……お前!」
一歩、また一歩。全身から殺気が滲む。
「俺が一晩中探してたってのに、こんなところで……野郎と逢い引きか!」
ベッド脇のサイドテーブルに、百合の花束があった。届いたばかりの瑞々しさ。
礼二の怒りに油が注がれる。
「ふざけるなよ!」
花束を掴み、床へ叩きつけた。
ガシャッ。
花瓶が砕け、ぱしゃりと水が散り、白い花弁が床に張りついた。
「病院にまで来て仮病で浮気か。いい根性じゃねえか!」
礼二の胸が大きく上下する。言葉が荒くなるのを止められない。
「男がそんなに欲しいのか? 俺の金でヒモでも飼って、恥ってもんを――」
「国分さん、誤解です!」
白衣の男――鳴瀬優真が咄嗟に凛の前へ出た。
「私は凛の大学の先輩で、この病院の医師です。昨夜、救急棟に搬送されました。診断は軽い脳震盪で、経過観察のための入院です」
先輩。医師。
そんな肩書きが、礼二の耳には言い訳にしか聞こえない。
何より――「凛」という呼び方が癇に障った。
「お前、何様だ」
礼二は優真を乱暴に押しのける。
「俺に口を利くな」
そして凛へ、赤く充血した目を突きつけた。
「おい。俺が聞いてる。黙ってんじゃねえ」
凛は、礼二が蹴り込んできた瞬間から、目の中の光を失っていた。
あの一瞬の笑みも、星のような輝きも――跡形もない。
彼女は目の前の男を見た。
理性を失って喚き散らす、滑稽な男を見るみたいに。
最後の、馬鹿げた期待が灰になって落ちる音がした。
凛はゆっくりと手を上げ、まだ説明しようとしていた優真の白衣の裾を、そっと掴む。
「先輩……もういいです」
声は小さい。けれど驚くほど落ち着いていた。
優真が振り返る。
凛の瞳は古井戸の水みたいに静かで、底が見えない。言葉が喉で詰まり、彼はそれ以上何も言えなかった。
凛は背を起こし、枕に身体を預ける。
そして冷たく、礼二の視線を受け止めた。
泣かない。騒がない。
悔しさすら、見せない。
「……これが国分社長の品格ですか」
ふわり、と軽い調子なのに、言葉は氷の針だった。
「病院の病室で、大声を出して、物を壊して……人を傷つけて」
礼二は、その冷え切った態度に刺された。
こいつのこの顔が、昔から一番腹立たしい。何も感じていないみたいな顔。
「白々しいんだよ!」
礼二は吐き捨てる。
「お前が使ってる金は全部、国分の金だろ。何が清い顔だ。俺の前で気取るな」
「お金……」
凛が、ふっと笑った。
笑っているのに、瞳は笑っていない。その冷たさに、背筋がぞくりとする。
「安心してください」
一語ずつ、きっぱりと言う。
「国分家から受け取ったお金は、全部、帳簿に付けています。出ていくときに、1円も欠かさず返します」
そう言いながら、凛の視線がゆっくりと落ちる。
手首に残る、まだ消えきらない青紫の痣。
それから――痛みが残る後頭部へ、指先でそっと触れた。
「それと……あなたが私につけた傷も」
凛は目を上げる。刃みたいに鋭い光。
「一つずつ、きちんと精算しましょう」
精算。
その二文字が、礼二の頭から怒りを奪った。
彼は固まった。
泣いて縋るだとか、いつものように必死で弁解するだとか――そういう反応を想像していたのに。
こんな、冷たい「清算」の口調で、向き合われるなんて。
胸の奥が、ぎゅっと掴まれる。妙な動悸が、息を詰まらせた。
礼二は眉を寄せ、凛の顔から嘘の痕跡を探す。
どうせ演技だ。俺に構わせるためだ。俺に謝らせるためだ。
……だが、凛の瞳にあるのは決意だった。混じりけのない、切断の色。
「お前……何を企んでる」
礼二は吠えた。強がるような声色なのに、さっきまでの確信が消えている。
凛は、もう礼二を見なかった。
視線を横へ移し、呆然としている優真へ、丁寧で距離のある声に戻す。
「先輩、すみません。警備員を呼んでください」
――警備員? 俺を追い出すつもりか。
礼二が反射的に怒鳴ろうとした、その前に。
凛の次の言葉が、雷のように落ちた。
「それから、今すぐ私の弁護士にも連絡を。前に準備していた資産関係の書類、手続きを始めていいと伝えてください」
弁護士。資産の書類。
礼二の頭が、ぶんと鳴って真っ白になった。
フランスの採用通知。
凛が口にした離婚。
返金。精算。警備員。弁護士。
点が勝手に繋がり始める。
嫌な形が輪郭を持つ。心臓の動悸が、さらに強くなる。
――まさか、本気なのか。
浮かんだ瞬間、その考えを礼二は力任せに押し潰した。
あり得ない。
あいつは何年も俺を――。
それなのに、どうしてこんな顔をする。
いったい何を、水面下で進めている。
礼二は凛を睨みつけたまま、唇の端を引きつらせた。
自分の中の不安を認めたくなくて、声だけを荒くする。
「……勝手に終わった気になるなよ」
