第2章
息ができないほど深く口づけられ、千枝がふらついたところで、悠はようやく唇を離した。
くつ、と喉で笑う。
「キス、下手?」
千枝は半分気を失いかけていた。そもそもキスで息継ぎなんて、できるはずがない。
プラトニックを貫くために、和也とできたのは手を繋ぐのと、抱きしめるのが限界。
キスも数回しただけで、和也が暴走しかけてから怖くなって避けていた。上手いわけがない。
――この男も上手いとは言えないけど、私よりはマシ。
「誰が下手って言ったの」
負けず嫌いが顔を出し、千枝は男のネクタイを掴んでソファへ押し倒した。
跨がるように乗り、意地になって唇を噛むように貪る。
綾子に教わった「キスの極意」を必死に思い出しながら。
舌を使って、手も添えて、密着して――。
その一連だけで、悠の身体は熱に満ちた。下腹が張って痛い。
なにより、千枝のあの桃花眼が厄介だった。キスの最中、うっすら霧がかかって、目が合うだけで引きずり込まれそうになる。
千枝は自分からキスし、乱暴にネクタイを引き抜き、シャツのボタンを外していく。最後にベルトへ手をかけた。
そのとき、ある場所を見て手が止まった。
「どうした」
悠は掠れた声で言い、腰を持ち上げて不満を示す。
「ゴム……! ゴム、つけて!」
千枝は真っ赤になって身を翻し、避妊具を探した。
酔っていても、そこだけは理性が残っていた。
見つけて振り返ると、悠はすでに全部脱いでいた。
視界に飛び込んできた「それ」に、千枝は反射で喉を鳴らす。
綾子の言葉がよぎった。
――初めては天にも昇るけど、痛くて三日歩けない。
ぼうっとしている間に、悠が避妊具を奪った。
サイズ表記を一瞥し、ゴミ箱へ放る。
「小さい」
「は……?」
返事を待たず、悠は彼女を抱き上げた。大きな手が太腿から尻へ滑り、唇は胸元に吸いつく。
千枝は声を漏らし、怖さで身体が震える。
耳元で、男が低く笑った。
「怖い?」
「怖いわけないでしょ!」
千枝は強がり、主導権を奪うように男をソファへ押し戻し――。
翌朝。
窓から差し込む光で、千枝は目を覚ました。
覚えているのは、男の端正な顔、割れた腹筋、止まらない動き。
今まで味わったことのない快感が全身を攫い、痛みも少し混ざっていた。
――夢、かな。
ため息をついて目を開けた瞬間。
「……っ!」
隣に男が寝ている。
千枝は慌てて布団を抱え、身体を隠そうとして立ち上がり、下腹の痛みによろけた。
「危ない」
悠が腕を伸ばして抱きとめる。
「触らないで!」
千枝は突き放す。たったそれだけで息を呑むほど痛かった。
シーツに赤が滲んでいる。
悠の唇が細く結ばれた。
「……初めて?」
昨夜あれだけ積極的だったのに、処女だった?
悠にも経験があるわけじゃない。ただ、まずいことをしたかもしれないという感覚だけが残る。
けれど声の調子は淡々としていて、千枝には「面倒だ」と言われたように聞こえた。一夜限りの相手にまとわりつかれるのを嫌がっているのだろう。
「ち、違う! たぶん生理……確認するから」
顔を真っ赤にして、布団を巻いたまま浴室へ逃げ込む。
先ほど見た悠のサイズを思い出し、頭皮がぞわっとした。
あれじゃ痛いに決まってる。
どれくらい経ったか。
外でドアの閉まる音がした。――出ていった。
千枝は恐る恐る浴室を出て、部屋に誰もいないのを確認してから、ようやく息を吐いた。
荒唐無稽すぎる。
あのときは、ただ悔しくて、腹の虫が治まらなくて。
せっかく縁起のいい日に初めてを……なんて思った自分が馬鹿だった。
イケメンは確かにイケメンだったけど、痛いのも本当だった。
そこへ、電話が鳴る。
千枝は飛びつくように出た。
「ハッキュウ宝飾、人事部です。雪見さん、最終面接に進んでいただくことになりました。午前10時にお越しください」
「はい! 必ず行きます!」
嬉しくて叫びそうになった。
何社も受けて、ようやく第一志望に引っかかった。
残り時間は一時間もない。
痛みを堪えて帰宅し、着替え、会社へ向かう途中で薬局にも寄った。
昨夜は色に負けて、対策をしていない。
高い避妊具の箱がどこに消えたかもわからない。
――あの男、絶対初めてじゃないよね。経験豊富なら、相手も多いかもしれない。
千枝は会社1階のエレベーターホールで、考えれば考えるほど怖くなった。
病気とか……病院で予防の薬でももらうべき? もしHIVだったら?
不安が膨らみ、彼女は震える手で緊急避妊薬を口へ放り込んだ。
大きな錠剤が喉に引っかかり、意識が遠のきかける。
「水」
目の前に保温ボトルが差し出された。
千枝は反射で一口飲み、ようやく飲み下す。
「ありがとうございます……」
振り向いた瞬間、声が止まった。
昨夜の男が、背後に立っていた。
悠は無意識に彼女の薬箱へ手を伸ばす。
「具合悪いのか」
千枝は慌てて箱を鞄に押し込み、掠れ声で言う。
「……違います」
その声に、二人とも一瞬固まった。
昨夜、叫び続けたせいで声が枯れている。
悠の視線が彼女の首筋に落ちる。うっすら残る痕。
喉仏が上下した。昨夜の感触が鮮明に蘇る。
――良かった。いや、とても良かった。
千枝は顔が熱くなるのを止められない。
「上、行くか」
声に反射して頷き、逃げるようにエレベーターへ乗り込む。
悠が隣に立つだけで、千枝は隅へ寄った。
この人、まさかハッキュウ宝飾の社員? これから毎日顔を合わせる? 地獄だ。
同時刻。ハッキュウ宝飾の社内グループチャットは大炎上していた。
バーで、悠が隣の女をとろける目で見ている写真が、狂ったように転送されている。
女は後ろ姿しか写っていない。
だが悠の表情は、誰が見ても明らかだった。
――あの冷徹な悠が、恋する目をしている。
