第5章
視界の端で、千枝が『宇宙の心』の写真を何度も拡大したり縮小したりしているのが見え、悠の口角はさらに上がった。
彼女がオフィスにやって来る前、彼はその卒業論文に猛スピードで目を通していた。
千枝がアンティークジュエリーにかなりの造詣を持っていることは見て取れたが、この手の品は写真で眺めるのが関の山で、実物を目にする機会などそうそうない。
とくに希少価値の高いジュエリーとなれば、そのすべてが個人のコレクターの手に渡っており、博物館でさえお目にかかれないような代物ばかりだ。
だからこそ、千枝がこれほどの誘惑を拒めるはずがないと分かっていた。
二人がオークション会場に到着したとき、開始まであと十分というところだった。
悠は最前列のVIP席に案内された。
彼が足を踏み入れた途端、すぐに立ち上がって挨拶をしてくる者たちがいた。
国内最大のジュエリーブランドの継承者なのだから、その地位は推して知るべしだ。
そして皆の視線は、示し合わせたかのように彼の隣にいる女へと注がれた。
まだあどけなさが残るものの、言葉では言い表せないような瑞々しい雰囲気を纏った少女。
ここ数年、悠の傍らには常に秘書の高橋杏奈(たかはし あんな)が控えており、別の人間を連れているのはこれが初めてだった。
以前から、悠の周囲に女の影がまったくないことから、もしかすると杏奈が未来の九条の奥様になるのではないかと勘繰る者も少なくなかった。
だが今、隣にいる人間が変わり、千枝のその整った顔立ちを目にして、多くの者が彼女の正体を推測し始めていた。
悠の隣に座っていた中年男が愛想笑いを浮かべて立ち上がり、彼と握手を交わした。
「九条社長、ずいぶんと遅いご到着で。美女のエスコートでもされていましたかな?」
「彼女の具合が悪くて、少し病院へ」
悠のその言葉が出た瞬間、周囲から次々と息を呑む音が漏れた。
国内ジュエリー界の生ける伝説であり、誰もが羨むほどの成功者である悠。誰に対しても冷徹な彼が、小娘の体調を気遣い、あろうことか自ら病院に付き添ったというのか?
周囲の探るような視線を浴びて、千枝は頭皮が粟立つような感覚を覚えた。
頭をフル回転させ、即座に言い訳をひねり出す。
「はい、九条社長は部下思いでいらっしゃって。この後の仕事に支障が出ないようにと、ご配慮いただいたんです」
「部下?」
中年男は目を瞬かせた。
千枝はすかさず頷く。
「九条社長の秘書を務めております、雪見千枝と申します」
中年男は、ほう、と声を漏らした。
「どうりで高橋秘書の姿が見えないわけだ。人が代わっていたんですな」
彼は意味ありげに悠を一瞥し、再び千枝へ視線を向けた。
悠は表情一つ変えずに身をずらし、その視線を遮った。
千枝は拳を握りしめ、どうにか無表情を装ってプロの秘書らしく振る舞おうとした。
だが内心ではすでに半泣きだった。さっきまで秘書なんてやらないと言い張っていたのに、ここで自ら認めてしまった以上、もう後戻りなどできそうにない。
それに周囲を見渡せば、ジュエリー界の大物か、さもなくば名家の人々ばかりだ。
もしここで悠の機嫌を損ねでもしたら、自分の未来は完全に終わる。
暗雲の立ち込める前途を思い、千枝は機械的な動作で悠の隣に座り、どん底の気分に浸っていた。
しかしオークションが始まると、彼女はすぐさま活力を取り戻した。
今回のオークションに出品されるのはすべて希少なジュエリーであり、どれも一級品ばかりだ。
これまでにも何度かオークションに参加したことはあったが、これほど多くの世界最高峰のジュエリーを目にするのは初めてだった。
最初の三点だけでも国宝級と呼べる代物で、見ているだけで胸が高鳴る。
彼女は出品物を食い入るように見つめながら、手元のノートに素早くラフ画を描き起こしていった。
これは長年の習慣だった。
優れた作品やインスピレーションを得たときは、必ず持ち歩いているノートに描き留めるようにしている。
ひらめきは一瞬で消え去ってしまう。だからこそ、どんな機会も決して無駄にはしなかった。
彼女の手元にあるノートを見て、悠が軽く笑みをこぼす。
「後で裏に回って、じっくり見せてやろうか?」
「いいんですか!?」
千枝は興奮のあまり声を抑えきれず、周囲の何人かがこちらを振り返った。
悠は甘やかすように頷くと、再びステージ上の出品物に視線を戻し、千枝の手を取って高く掲げた。
「五千万!」
千枝は飛び上がりそうになった。ステージ上のペアリングを見て、慌てて仕事モードに切り替える。これが先ほど悠から教えられた、目当ての品の一つだ。
だが最終的に、五、六千万の価値しかないはずのペアリングが、強引に一億まで釣り上げられたときには、札を挙げる千枝の手は小刻みに震えていた。
一方の悠は、その価格を平然と受け入れている。
泣きそうな顔をしている千枝を見て、彼はおかしそうに尋ねた。
「その価値はないと思うか?」
「そういうわけじゃ……」
彼女はこっそりと、悠の隣にいる中年男を睨みつけた。
このクソデブが値を吊り上げなければ、六千万で落札できたはずなのに。
その様子を見て、悠の瞳の奥にある笑みはさらに深まった。
「このペアリングには深い意味がある。そうだろう?」
「その通り。なんでもこのペアリングは、ヨーロッパのとある国王が自ら作り上げたもので、一度はめると二度と外せないそうですな」
中年男もそれを聞いて顔を向けた。
「うちの妻が試してみたいと言っていたんですが、九条社長がそこまで熱望されるなら、お譲りするしかありませんな」
千枝は指輪をまじまじと見つめた。逆V字のデザインは確かに美しく個性的だが、どこにそんな仕掛けがあるのかは分からない。
外せないという言葉を思い出し、彼女はハッと目を見開いた。
「じゃあこれ、もしかして墓泥棒の品ですか?」
でなければ、どうしてこの指輪がオークションに出回ったりするのだろうか。
まさか、王妃が死んだ後に、遺族が指を切り落としたとでもいうのだろうか?
血生臭い光景を想像して、千枝は思わず身震いした。
中年男は唖然とし、悠は無表情のままステージへと視線を向けた。
「次の品に集中しろ」
少し機嫌を損ねたのを感じ取り、千枝は慌てて口をつぐんだが、内心では少しだけホッとしていた。
ワンマン社長たるもの、こうして冷徹に振る舞ってくれなくては。毎日ニコニコ笑いかけられたりしたら、それこそ気味が悪い。
幸いにもその後の出品物はそこまで競り合うこともなく、千枝も無事に任務を遂行できた。
そしていよいよ、最後の大トリである『宇宙の心』の番が回ってきた。
「ご来場の皆様の半数以上が、この『宇宙の心』を目当てにいらしていることと存じます。本日の最終出品物となります」
司会者の声が響き渡り、会場の空気は一瞬にして張り詰めた。
展示台がゆっくりとせり上がり、『宇宙の心』が人々の目の前に姿を現す。
千枝は目を大きく見開き、どんな細部も見逃すまいと食い入るように見つめた。
巨大なサファイアがネックレスのど真ん中に鎮座し、その周囲を彩るカラーダイヤモンドが銀河系を模して配置されている。
照明の光を浴びて、一粒一粒のダイヤモンドがそれぞれ異なる輝きを放っていた。
ネットの画像や動画では到底伝わらない圧倒的な存在感。最前列に座り、この絶世の美しさを誇るネックレスを目の当たりにして、千枝の瞳はさらに輝きを増した。
彼女の呼吸が少し荒くなっているのを感じ取り、悠の思考は昨夜の出来事へと引き戻された。ある種の限界に達したとき、彼女もこんなふうに息を乱していた。
かすかで、人の心をひどくくすぐるような息遣い。
「こちらのネックレス、スタート価格は十億からとなります!」
司会者の声が終わるや否や、会場のあちこちから次々と声が上がった。
入札価格が三十億に達したのを聞いて、千枝は気後れしながら悠を盗み見た。
「九条社長、まだ続けますか?」
悠の限度額がいくらなのかは分からない。ただ、彼の唇が真一文字に結ばれているのだけが見えた。
価格が五十億まで跳ね上がったとき、悠は千枝の手を握り、ゆっくりと高く掲げた。
「八十億」
番号札を掲げたままの千枝を含め、誰もが驚愕の面持ちで彼を振り返った。
彼女は慌てて札を下ろした。心臓が口から飛び出そうだった。
八十億?
夢にも思わないような桁違いの金額だ。
悠がふいに顔を寄せ、彼女の耳元で低く囁いた。
「このプレゼント、気に入ったか?」
