第6章
「八十億、三回目――落札です!」
司会者の木槌が鳴り響き、宇宙の心は最終的に悠の手に渡った。
引き渡しの手続きに向かう間も、千枝の頭はまだぼんやりしていた。
彼がさっき言った『プレゼント』とは、どういう意味なのだろう。
ネックレスの破格の値段を思い出し、千枝は必死に自分に言い聞かせた。あんなに高価なのだから、きっと見せてくれるだけだよね、と。
宝飾デザイナーとして、伝説のジュエリーの実物をこの目で見られるなら、それだけでも十分すぎるほど素晴らしいプレゼントだ。
そう心の準備を整えると、千枝は目に見えて緊張が解けた。
VIPルームでは、スタッフが落札品を次々と運んできていた。
悠はソファに座って紅茶を味わい、千枝は秘書としての務めをきっちりとこなしている。
悠が落札したジュエリーは全部で四点。どれも目の飛び出るような代物ばかりで、千枝が真剣に確認するのは当然のことだった。
そのひたむきな横顔を見つめる悠の眼差しは、いくぶんか柔らかい。
ただ、最後のネックレスを前にしたとき、千枝はどうしても緊張を隠せなかった。
新しい手袋にはめ直し、見落としがないよう息を詰めて検品する。
悠は軽く手を振り、オークション会場のスタッフを先に退出させた。
千枝はしばらく確認を続けてから、ようやく安堵の息を吐いた。
「九条社長、すべてのジュエリーの確認が終わりました。こちらはどうやって持ち帰りますか?」
「そのまま着けて帰る」
悠は立ち上がって彼女のそばへ歩み寄ると、宇宙の心を手に取り、直接その首元に着けた。
「美しいな」
彼の瞳には純粋な感嘆が浮かんでいる。それがネックレスに向けられたものなのか、それとも彼女自身に向けられたものなのかはわからない。
千枝は身体を強張らせた。首元が信じられないほど重く感じる。
八十億が首にぶら下がっていると思うと、今にも息が止まりそうだった。
その様子を見た悠は、彼女の耳たぶを軽くつまんだ。
「気に入らないか?」
千枝は慌てて頷き、すぐに首を横に振った。
気に入るも何もない。八十億を? それともネックレスを?
彼女の混乱をよそに、悠は手を引いて彼女を座らせた。
「君へのプレゼントだと言っただろう。好きか? 君の論文に『実物を見られないのが非常に残念だ』と書いてあったからな」
千枝は呆然と彼を見つめた。胸の奥で何かが膨らみ、今にも溢れ出しそうになる。
彼は私の論文を読んで、その言葉まで覚えていてくれたんだ。
U国第十二代皇后のサファイアネックレスは、伝説そのものだ。
最愛の人が彼女のために自ら作り上げたもので、使われているすべてのダイヤは、その恋人が探し出し、磨き上げ、最後にネックレスへと嵌め込んだと言い伝えられている。
それは単なるジュエリーではなく、深い愛を宿した結晶なのだ。
論文を執筆していた頃、千枝は数え切れないほどの文献を読み漁り、この二人の愛情に深く心を打たれていた。
彼女だって、美しい恋を夢見るごく普通の女の子だ。
恋愛にのめり込むタイプではないと自負してはいたが、いつか和也と、穏やかで素敵な関係を築けたらと願っていた。
自分の惨めな現状と、あの混乱に満ちた一夜を思い出し、千枝はうつむいた。そしてネックレスを外し、そっと慎重にケースへ戻す。
「九条社長、このネックレスは受け取れません」
「どうしてだ?」
悠はわずかに眉をひそめ、本気で理解できないという顔をした。
彼女が好きなものを、自分が買った。なら、喜ぶのが普通ではないのか。
千枝はなんとも言えない表情で彼を見返した。八十億の品を、平然と受け取れるわけがない。
ただの一夜限りの関係どころか、たとえ本当の恋人同士だったとしても、こんな高価なプレゼントは受け取れない。
「九条社長、昨日のことはただの誤解です。大人の関係ですし、お互い合意の上でした。何も償っていただく必要はありません」
自分が初めてだったと知って、彼は責任を感じて埋め合わせをしようとしている。千枝に思いつく理由はそれしかなかった。
彼女は顔を上げ、悠の目を真っ直ぐに見据えて言った。
「最初にも言いましたよね。私はあなたに責任を求めませんし、あなたも私に責任を取る必要はありません。そういうことです」
そう言って背を向け、ジュエリーをアタッシュケース型の金庫に収める。
「九条社長、そろそろ手配を……」
「付き合ってみよう」
悠が立ち上がり、背後から彼女を包み込むように、テーブルの両側に手をついた。
「君と、付き合ってみたい」
「……何をですか?」
千枝は一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
昨夜の彼の激しすぎる振る舞いを思い出し、慌てて首を振る。
「九条社長、お医者様にも言われたんです。しばらくは……そういうことは控えた方がいいって」
しばらく控えるどころか、当分は絶対にしたくない。少なくとも、直属の上司とはごめんだ。
悠の瞳が暗く沈み、さらに身体を密着させてくる。
熱を帯びた吐息が首筋にかかり、千枝は思わず身をすくませた。
赤く染まったその耳を見て、悠は噛みつきたい衝動をぐっと堪え、ようやく身体を離した。
圧迫感が消え、千枝は弾かれたように振り返る。
「九条社長、私はセフレを探しているわけじゃありません」
彼女の認識では、悠のような立場の男なら、周りに女はいくらでもいるはずだ。
昨日の様子からして、彼は相当に性欲が強いタイプだ。まだじんじんと痛む下半身の抗議を感じながら、彼女はもう一度繰り返した。
「そういう相手は求めていません。昨日はただの事故です」
もし彼の正体を知っていたら、もし昨日もう少しだけ理性が残っていたら、絶対に彼と一夜を共にすることなどなかった。
悠は少し困ったようにため息をついた。
「千枝、俺は君と真剣に恋愛をしてみたいと言っているんだ。ちゃんと責任は取る」
千枝は目を丸くし、自分の耳を疑った。
悠はもう一度念を押す。
「恋人として付き合ってみないか。俺の彼女になってほしい。考えてみてくれないか」
会社で千枝に再会した瞬間、悠の腹は決まっていた。
実家からの結婚の催促が煩わしく、一生独身を貫いて抗う覚悟すらしていたところに、千枝が現れたのだ。
社長室に戻ってからの数分間、悠は昨日の出来事を真剣に振り返った。
初めて千枝を見た瞬間、彼は心を奪われた。いや、下心から始まったと言ってもいい。
他人に触れられるのを嫌い、少し女性不信の気がある彼が、千枝の接触だけは拒まず、彼女のためなら酒を飲む気にもなった。
彼女の瞳に浮かぶ喜怒哀楽を見ていると、無意識のうちに心が揺さぶられる。
これが一目惚れと呼べるのかはわからない。だが、お互いに初めてを捧げ合ったのだから、互いに責任を持つべきだと彼は考えた。
千枝が黙り込んでいるのを見て、悠は別の提案を持ち出した。
「それなら、先に結婚して、それから恋愛を始めるという手もある」
「ダメです!」
千枝がようやく声を上げた。
あまりに激しい拒絶に、さすがの悠も少し驚いた。
千枝は困惑した顔で彼を見つめ、最後はヤケクソ気味に言い放った。
「すみません、私には彼氏がいます」
「知っている」
悠は真面目な顔で頷いた。
本来、悠はそのあたりを調べるつもりはなかった。なにしろ千枝は初めてだったのだから、当然フリーだと思い込んでいた。
しかし部下からの報告で、千枝には数年付き合っている恋人がいるという事実を知らされたのだ。
あまりにも冷静な悠の態度に、千枝は言葉を失った。
和也との現在の関係をどう説明すればいいのかわからないし、何より和也に裏切られたことなど、口が裂けても言えなかった。
ブーッ、ブーッ……。
スマホのバイブレーションが鳴り、画面に和也の名前が表示されたのを見て、千枝は無意識に切ろうとした。
だが、目の前には『付き合ってみよう』と迫ってくる悠がいる。彼女は思いとどまり、通話ボタンを押した。
『千枝、今どこ? ごめんね、昨日は誕生日だったのに一緒にいられなくて』
静まり返ったVIPルームに、和也の気遣うような、それでいて後ろめたさの混じった声がやけに耳障りに響いた。
