第2章
私は、離婚するつもりだった。
その意地悪い決意に突き動かされ、ランウェイショーが終わった瞬間にボディガードを振り切り、東都ランジェリーコレクションの打ち上げへ突撃した。
午前三時まで、テキーラとストロボの光に溺れた。売り出し中の若手俳優に何人か、恥も外聞もなく体を擦りつけて――ほとんど「不倫」の汚い証拠写真を撮ってくれと、パパラッチに懇願する勢いだった。
明日、離婚届と一緒に蒼真の机へ叩きつけるのに、これ以上ないネタになる。
エレベーターの扉が、無音でペントハウスへと開いた。
ヒールを脱ぎ捨て、肌荒れを起こしていたダイヤのチョーカーを引きちぎり、小物トレーに投げ入れた。
帰りの車内で必死に掻きむしった首筋の脇は皮膚が擦り切れ、火がついたようにひりついていた。
リビングは真っ暗だった。
チョーカーがトレーに落ち着くより早く、闇の中で氷がグラスに当たって、鋭くカチンと鳴った。
蒼真が影の中から立ち上がった。近づくにつれ、冷たい杉のような彼特有の香りと、息が詰まるほどの圧が壁みたいにぶつかってくる。
けれど彼は、私の目を見なかった。まるで火傷でもしたかのように、視線は私の首に貼りついたままだ。
私はその視線を追って、玄関ホールの鏡を見た。月明かりの下で、怒ったような赤い掻き傷がくっきり浮き上がっている。まるで乱暴につけられたばかりの、真新しいキスマークの群れ――そう見えるほどに。
その瞬間、ガラスに映った彼の大きな影が、ほんのわずかに身をすくめたのが分かった。
喉仏がごくりと大きく上下する。純粋で殺意めいた痛みが彼の目に走り、両脇の拳がぎゅっと握り締められて、血管の筋が浮き出た。
胸の奥に、ぞくりとするほど不快で痛快な高揚が突き上げた。
怒る? 嫉妬する? だったら、触れられないふりなんてやめてみせなさいよ。
――けれど、耐えがたい沈黙のあと、強張っていた彼の顎の緊張が崩れ落ちた。負けたように、彼は視線を引き剥がす。
「風呂を沸かしてある」
ようやく発された声は擦れて荒く、無理やり落ち着きを貼りつけたように重かった。
「浸かれ」
私の挑発は、完璧に空振りだった。
怒りもない。理性を失う気配もない。責める言葉ひとつ、投げてこない。完全に拒絶され、閉め出される――あの馴染みの屈辱が、また喉を締めつけた。
苦い痛みを飲み込み、私は冷たく鼻で笑う。「はいはい」
彼に二度と視線をくれず、そのまま浴室へ踏み込んだ。
熱い湯に沈み、湯気が部屋を満たす中で目を閉じる。それでも頭から離れないのは、さっきの、死んだような顔だった。
ラッチの小さな音に、私は目を見開く。濃い湯気の向こうから、蒼真のがっしりした影が中へ入ってきた。
水がちゃぷんと揺れる音に、彼は一瞬たじろいだ。顎を頑なにそむけたまま、壁の棚だけに視線を固定して、浴槽へ近づいてくる。
私は泡の中に沈んで隠れたりしない。陶器の縁にもたれて冷たく身を起こし、裸の鎖骨と胸のふくらみに沿って、水滴をつうっと落とした。
私は彼を睨み据えた。グラスを握る彼の手の血管が浮き上がり、絞り出すように大理石の洗面台へ置かれる。こもった鈍い音がした。
「寝る前に飲め」
噛みつくように吐き捨て、彼は踵を返した。
荒い呼吸のまま、数秒で扉の外へ消える――まるで、同じ部屋に私の裸があるだけで拷問だと言わんばかりに。
私は掌を湯に叩きつけた。
最低。
二日酔い対策の飲み物と頭痛薬が、ようやく私を眠りへ引きずり込んだ。
目が覚めると、カーテンの隙間から白い光が滲んでいた。けれど私を跳ね起こしたのは日差しじゃない。息が詰まるほどの熱だった。
二日酔いの鈍い頭痛の奥で、私は瞬時に身体を固くした。
鉄みたいな腕が私の腰に回され、がっちりとロックされた。蒼真の胸が熱を帯びて背骨に押しつけられ、荒い息が首筋のくぼみを熱くくすぐる。さらに下では、否応なく硬く盛り上がった欲情の稜線が太腿の裏側に重く押し当てられていた。
私は完全に強張った。結婚して一年。パパラッチ向けに演出した芝居を除けば、こんなに近づいたのは初めてだった。
「千鶴……」
私が身を硬くしたのを感じても、彼は離さない。むしろ強く引き寄せる。ごつい親指が腰のラインをなぞり、灼けるように意図的な軌跡を引いた。
熱い唇が、昨夜あれほど彼が凝視していた赤い痕へ正確に触れた。
「どうしても……誰かが必要なら……」彼は掠れ声でそう言い、顔を私の首筋に埋めた。声は壊れきっている。「……俺にしろ。いいだろ?」
昨日の私なら、意地を飲み込んで迷いなく彼の腕の中へ身を預けていたはずだ。
けれど、彼がまだ想いを残している手の届かない女性の存在と、昨夜の、聖人ぶった自制――それが重なって、私の悪意に一気に油を注いだ。
私は肘を思い切り後ろへ叩き込み、彼の拘束をこじ開けた。
「触らないで」吐き捨てる声は氷みたいに冷たかった。「昨夜ちょっと張り切りすぎたの。もうヘトヘト」
背後の熱い体が、石のように固まった。呼吸さえ、ぴたりと止まる。
息苦しい沈黙の中、私は振り返らなかった。ただ、背中に押し当てられていた胸が一度だけ大きく上下し、ぎざぎざに抑え込んだ息が震えとなって伝わってくるのを感じた。
腰に回っていた腕がほどける。彼は一寸ずつ私から剥がれていき、ぬくもりを一欠片残らず連れ去った。
「……そうか」声は空っぽだった。「俺が悪い。押しすぎた」
マットレスがきしみ、彼の体重が離れる。乱れた足音が遠ざかり、数秒後、出入口で止まった。
「酒……控えろ……」背後から、掠れ切った声が落ちてくる。「誰に腹を立ててるのか知らないが……自分の体まで罰するな」
扉が、痛いほど丁寧にカチリと閉まってからようやく、私は息を吐いた。シーツを握り潰していた手の力がほどける。
傷つけてやれば、気持ちいいと思っていた。
全然、違った。
復讐の快感は来ないまま、代わりに胸の奥に鈍い痛みだけが残って、息がしにくい。
その重たい気分は金曜日まで尾を引いた。
明日のフィッティングに備えて、縫い目の出ない下着を探しながらクローゼットを掘り返していたとき、ぞっとすることに気づいた。
ショーの夜に引きちぎるように脱いだ、深紅のレースのランジェリー――ソファに放り投げたはずのセットが消えている。
それだけじゃない。よく思い返すと、今週だけで何枚か、下着がなくなっていた。どれも一度身につけたものばかりで、まだ私の匂いが残っているはずのもの。
このペントハウスのセキュリティは鉄壁だ。どうやって変態が入り込んだっていうの?
背筋を這い上がってくる冷たい嫌悪感を飲み込み、私はダイニングへ足を向けた。
蒼真は長いテーブルの奥に座り、バターナイフでトーストに淡々とバターを塗っていた。仕立てのいいシャツは喉元まできっちり留められ、皺ひとつ見当たらない。
私はちょうど真正面に腰を下ろし、彼の目を射抜いた。
「警察を呼んで、蒼真」命令する声は氷のようだった。「この家に泥棒がいるの」
彼の手が、途中で止まる。
ナイフが滑り、陶磁器の皿をギャリ、と耳障りに引っ掻いた。
彼は顔を上げない。けれど柄を握る拳が、一瞬で血の気を失って真っ白になった。
「……どんな泥棒だ」彼は尋ねた。
口調は平静だ。だが間が、ほんのわずかに遅い。
私はかすかに震える彼の手を見つめながら、一語一語、はっきりと言い切った。
「私のランジェリー。濃い赤のレースのセットが……なくなってる」
