第3章
蒼真はバターナイフを握る拳に力が入り、指の関節が白くなるのを自覚して、無理やり力を抜いた。リネンのナプキンをひったくるように取り、唇についたはずもない汚れを、やけに几帳面に押さえて拭う。
私は、そのわざとらしい平静さに目を細めた。
「監視カメラの映像を引っぱり出して警察を呼べって言っただけで、急に世界が終わるみたいな顔になるのね」乾いた、嘲るような笑いが漏れる。「そんなに緊張してどうしたの、蒼真? まさか私の下着でも盗んだって言うんじゃないでしょうね」
ダイニングの空気が、死んだみたいに静まり返った。
蒼真の喉の奥で、低く獣じみた音が震えた。彼はゆっくりと顔を上げ、金縁の眼鏡の奥の氷河のように冷たい黒い瞳で、まっすぐ私を射抜いた。
「君はどう思う」声が、ぞっとするほど暗い低音へ落ちる。
私は目を回したくなる衝動をこらえた。
考えることなんてある? 蒼真は金融界の堅物、骨の髄まで退屈な男だ。私の下着なんか、何に使うっていうのよ。
それでも、その徹底した無関心が胸の奥に冷たい棘を突き立てた。
私たちのペントハウスの警備は、銀行に匹敵する。変質者がそれを破って侵入し、彼の妻のランジェリーを盗んだというのに、この強迫的な支配欲の塊みたいな男は、映像を確認する気すらないの?
私のプライバシーと身の安全が、彼の関心を一秒たりとも買えないのなら――この結婚は、もう完全に破綻している。
爆発する代わりに、私は脆い笑みを浮かべて要点だけを突いた。「今夜は何時に帰ってくるの? あなたに渡したいものがあるの」
――机の引き出しに入れてある離婚届。今日は絶対に署名させるつもりだった。
蒼真が立ち上がる。スーツのジャケットのボタンに指をかけたまま、一瞬だけ動きが止まった。
「君が望むなら、すぐにでも」間髪入れずに返ってきた声は、危険なほどざらついている。
その含みのある返答を咀嚼する前に、玄関ホールから秘書が咳払いをした。数秒後、重いオークの扉が鈍く鳴って閉まる。
がらんと広いダイニングルームに一人取り残されて、私は自分の耳の先が熱を帯びていることに気づいた。
最悪。あの男は歩く氷河で、肩が触れただけで苦痛そうな顔をするくせに。今のは何? みっともない色っぽい言い回しのつもり?
その落ち着かない苛立ちは、午後いっぱい私にまとわりついた。
ソファに丸まり、離婚書類に目を通そうとしたが、法律用語が霞んでいく。頭の中では、あの掠れた「君が望むなら、すぐにでも」が何度も何度も再生される。
苛立ってペンをテーブルに放り投げた。鼻筋の上をつまんで無理やり集中しようとした瞬間、執事室からの内線が鳴った。
専属の執事が静かに書斎に入ってきて、蝋封の封筒を革張りのトレイに載せて差し出した。
「桐生様から、直ちに金庫室へ厳重保管するようにとのご指示でございます」彼は割れた赤い蝋を見つめ、わずかに表情を曇らせた。「誠に申し訳ございません。配送業者から受け取った時点で既に破損しておりました。ご本人様に直接ご確認いただくのが適切かと存じます」
私が返事をする前に、彼は一礼して静かに退室した。
私はめったに詮索しない。けれど、機密書類が破られた状態で届いた以上、責任者は夫の怒りが怖すぎて自分では処理できなかったのだろう。
中から、クリーム色の厚手の用紙が滑り出ていた。
病院名と「診断書」の文字に視線が釘付けになる。
「医療法人社団 青山メンタルクリニック」
その下の病名欄には、几帳面な文字でこう記されていた。
「強迫性障害(重度)、依存性パーソナリティ障害の疑い」
私は凍りついた。
強迫性障害? 依存性パーソナリティ障害? 桐生蒼真が? 氷水を血管に流しているような男が、精神科に通っている?
視線が二枚目の診療記録に移る。
「患者は治療上必要な対象者との距離確保を強く拒否。特定人物への病的な独占欲求と、それに伴う強い不安・緊張により、動悸、発汗、不眠等の身体症状が顕著。急性不安状態を呈している……」
血の気が一気に引いて、氷のように冷えきったかと思うと、次の瞬間には白熱した怒りと信じがたい気持ちが火花のように全身を駆け巡った。
なるほど。ここ二年、あいつが私を見るたび妙にがちがちだった理由。触れられるたび、あの手つきが乱暴なくらい切迫していた理由。
私はスーパーモデルだ。一流誌の表紙だって当たり前のように飾ってきた。この街の億万長者の半分は、私に一度見られるだけで命を賭ける。
それなのに、私の夫は――正気を失いかけた時にしか私に触れない。きっと目をぎゅっと閉じて、私を「彼女」だと思い込んでいたんだ。
そして、これが理由――彼が欲していたのは私じゃない。別の女への歪んだ執着が限界まで膨れ上がった時、私はただの代用品として使われていただけ。
こんな下劣な執着が、金融界の絶対的支配者を、精神崩壊の瀬戸際まで追い込んだっていうの?
傷ついた自尊心と、むき出しの意地悪な悪意が、最後の理性を燃やし尽くした。
いいわ。今夜どうせ離婚届を突きつける。馬鹿みたいに鉄壁な境界線なんて、知ったことじゃない。
闇の中で、金融界の堅物を完全に狂わせるほどの「高嶺の花」って一体どんな女なのか――確かめてやる。
毒々しい意地に突き動かされ、私は廊下を怒り任せに踏み鳴らし、彼の私室書斎へ向かった。誰一人立ち入りを許されない、あの部屋だ。
今朝はよほど焦って出たのだろう。重い扉が、わずかに開いている。
私は扉を押し開けた。中の空気は、彼特有の匂いで濃密だった。冷たい杉の香りと、海外産の煙草。
巨大なエグゼクティブデスクの背後へまっすぐ回り込んだ、その瞬間。腰が端に置かれた黒と金の重いキネティック・スカルプチャーに触れてしまった。
危うく傾く。心臓が喉まで跳ね上がり、私は反射的に両手を叩きつけるように伸ばして、真鍮の台座を床に落ちる前に受け止めた。
カチッ。
掌が金属細工の溝に強く押し込まれた途端、机の下で硬い機械仕掛けの留め具が外れる音がした。
次のの瞬間、足元の床板が震えた。噛み合う歯車がうなりを上げるような、低く鈍い軋みとともに、机の背後の天井まで届く本棚が中央から割れ、壁の中へ滑り込んでいく。
隠し部屋が、口を開けた。
中は凍えるほど冷たく、やけに徹底した温度管理がされている。それなのに、琥珀色のレールライトが不気味なほど温かな光を落としていた。
息を止めたまま、私は敷居をまたぐ。部屋の中央には、博物館の展示みたいに洗練されたガラスケースが並んでいる。主展示台へ近づくにつれ、心臓が肋骨を叩きつけるように暴れた。
黒いベルベットのクッションの上に横たわっていたのは、濃い赤の布切れ。私の深紅のレースのショーツ。先週のパーティーのあとに消えた、洗っていない、あの一枚そのもの。
その隣には、吐き気がするほど執着じみた几帳面さで畳まれたシルクのスリップドレス。先週、洗濯籠から消えたものだ。
どの衣類にも深い皺が刻まれていた。白くなるほど握りしめた拳で、乱暴に、何度も何度も握り潰されたかのように見える――繰り返し、容赦なく掴まれたという、否定しようのない生々しい痕跡。
「……冗談でしょ」
私は口元を手で押さえ、息を呑むのを必死に堪えた。
気味の悪い侵入者なんていない。影に隠れた秘密の愛人なんていない。
彼を臨床的な崩壊寸前まで追い詰めた「対象者」、依存のたった一つの、苦しくてたまらない焦点――
それは、私だった。
