第2章

土曜の夕方、六時半。ダイニングルームを照らすシャンデリアの琥珀色の光が、磨き上げられたオーク材のテーブルと、壁一面の家族写真に暖かな陰影を落としていた。幸せな家庭、その完璧な肖像画は、今や私を嘲笑うかのようだ。

私は涼介のお気に入りの陶器の皿に、焼き加減を完璧に仕上げたローストサーモンを盛り付ける。その手つきは長年の習慣で滑らかだったが、頭の中は嵐のように荒れ狂っていた。

世界が足元から崩れ落ちていく今でさえ、完璧な妻を演じるという呪いは、私の体に深く染み付いている。

廊下から、涼介の足音が聞こえてくる。シャワーを浴び始めてから、もう二十分。いつもより、長い。それに……鼻歌?

夫がシャワーを浴びながら鼻歌を歌うなんて、最後はいつのことだったか、もう思い出せもしなかった。

戸口に彼が姿を現す。髪はまだ湿っており、その顔には、かつて私の胸をときめかせた、あの満ち足りた輝きが浮かんでいた。

今となっては、その表情が私の胃を不快に掻き乱すだけだ。

「いい匂いだな」

彼は椅子に腰を下ろすなり、すぐにスマートフォンに目を落とした。

『いっつも、そのクソスマホ』

「お仕事、どうだったの」

私は平静を装って尋ねた。サーモンにナイフを入れながら。

「思ったより早く片付いたみたいね」

フォークを口に運びかけていた涼介の手が、ほんの一瞬、止まる。だが、私はその微かな動揺を見逃さなかった。

「ああ、うん。思ったより簡単だったんだ。ちょっと……用途地域の書類を見直すだけで済んでな」

『用途地域の書類、ね。青木綾子の車から、心底満足しきった顔で降りてくるのに必要な、例の書類』

「それはよかったわ。大事なことのために時間を作れて」

言葉の裏に込めた棘が、二人の間の空気を張り詰めさせた。

「お母さん、綾子先生が新しいフットワークの練習、教えてくれたの!」

美咲が椅子の上でぴょんぴょんと体を弾ませる。その瞳は、かつてクリスマスの朝にしか見せたことのない輝きを放っていた。

「ヨーロッパの選手はみんなやってるんだって!」

娘の無邪気な熱意に、私は無理やり笑みを作って見せる。その一言一句が、小さな刃となって心の奥を抉るようだった。

「とても……熱心なコーチなのね」

「そうなの! それにお父さんも詳しいんだよ!」

食卓に走った亀裂にも気づかず、美咲は言葉を続けた。

「綾子先生が言ってた。お父さんはサッカーの戦略にすごく詳しいって! すごく良いアイデアをいくつか教えてもらったって言ってたよ」

私と涼介は、二人して凍りついた。テーブル越しに視線が絡み合い、火花が散る。日に焼けた彼の顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。

「へえ」

いつひび割れてもおかしくない薄氷の上を歩くように、私は慎重に声のトーンを保った。

「お父さんが綾子先生と戦略の話なんて、いつしたのかしら」

「あ、ああ、この前迎えに行った時に、ちょっと話しただけだよ」

涼介が慌てて割って入る。その声は普段よりわずかに上ずっていた。

「大したことじゃない」

『一度、ね。熱心なサッカーパパなら、戦略について一度軽く話しただけで、コーチの車から降りてくるものね』

「ポジショニングについて、すごく的確な意見を持ってるって言ってたよ!」

美咲は満面の笑みを浮かべていた。自分たちの食卓に爆弾を投下したことに、気づきもせずに。

午後十時。主寝室が、息苦しいほど狭く感じられた。隣接するバスルームで化粧を落としていると、壁が内側へと迫ってくるような錯覚に陥る。

鏡越しに、ヘッドボードに背を預ける涼介の姿が見えた。手にはスマホ。「メールの処理」をしている、という建前だ。

けれど、あの声……。

柔らかく、優しい声色。それは、付き合っていた頃、彼が私に囁いてくれた声だった。一言一言が、未来への甘い約束のように響いた、あの声。

「……また会えるのが待ちきれない。今日は最高だった……」

化粧落としシートを持つ私の手が、ぴたりと止まった。十六年間の結婚生活で、彼がクライアント相手にあれほど甘く、親密な声で話すのを聞いたことは一度もなかった。

バスルームのドアの隙間から、彼がスマートフォンの画面に微笑みかけているのが見えた。まるで恋する十代の少年のような、人目を忍ぶ、秘密めいた笑み。

彼が私に、あんな風に微笑んでくれたのは、一体いつが最後だっただろう。

私がドアを開けると、彼は弾かれたようにびくりと体を震わせた。

「また残業?」

私は静かに尋ねた。

涼介の親指が画面の上を慌ただしく動き、打ち込んでいた何かを消した。

「ああ……月曜のクライアントとの会議の確認だ。いつものことだろ」

日曜の朝、七時。ガレージにはモーターオイルと、涼介の高級なコロンの香りが混じり合って漂っていた。

サングラスを忘れた、という自分でも薄っぺらいと感じる口実を胸に、私は彼のトヨタのドアハンドルに手をかける。

高い窓から差し込む朝日が、塵一つない車内を照らし出していた。涼介は車を完璧な状態に保っている。コーヒーカップも、書類もない。生活感の欠片もなかった。

しかし……。

助手席の下で、私の指が何かに触れた。小さく、淡いピンク色のシリコン素材。間違いなく、私の持ち物ではなかった。

アップルウォッチのスポーツバンド。若く、活動的な女性が、ランニングや心拍数、そして自分の人生のすべてを記録するために身につける、あの類の。

それを光にかざした瞬間、私の世界はぐらりと傾いだ。

留め金には、小さな文字が刻まれている。

『A.A.』

そして、その横には、小さなハートのマーク。

青木綾子。

これはただの時計バンドではない。贈り物だ。誰かが肌身離さず、脈打つ手首につけていた、親密で、個人的な贈り物。

「静香? サングラス、見つかったか」

家の中から聞こえた涼介の声に、私は飛び上がった。

ウォッチバンドをポケットにねじ込む。心臓が肋骨を内側から激しく打ちつけていた。

「ええ! 見つかったわ! すぐ行く!」

だが、家に戻る私の足取りは鉛のように重かった。ポケットの中のピンク色のバンドが、私自身の愚かさの証拠として、熱く燃えている。どうしてこれを見逃していたのだろう。どうしてこんなにも、救いようのないほど、馬鹿だったのだろう。

午前八時。キッチンのアイランドカウンターは、私の一世一代の舞台と化した。

涼介が日曜版の新聞を読み、美咲がスケッチブックにクレヨンを走らせる中、私は機械的な正確さでパンケーキをひっくり返す。

いつもの日曜日の家族。完璧な妻、献身的な父、無垢な子供。

ただ、私の手の震えは止まらず、コーヒーポットを二度も落としそうになった。

「いい天気だな」

涼介が経済欄から顔を上げた。

「近くのビーチまでドライブでもどうだ? 家族サービスだよ」

家族サービス。今さら、彼が。

私はコーヒーマグを、砕けてしまいそうなほど強く握りしめた。

「いいわね」

「綾子先生も誘っていい?」

美咲が絵から顔を上げた。そこには、棒人間が楽しそうにサッカーをする絵が描かれている。

「先生、ビーチが大好きだって言ってたよ!」

マグカップが、私の手から滑り落ちた。甲高い音を立てて花崗岩のカウンターに叩きつけられ、黒いコーヒーが飛沫となって飛び散った。

「うーん……」

涼介が言った。

「綾子先生はきっと、日曜日には自分の予定があると思うぞ」

美咲の頭越しに、涼介と私の視線がぶつかる。一瞬、彼の表情に罪悪感がよぎった。生々しく、見間違うことのない罪悪感が。

私は完璧なキッチンで、完璧だった人生の残骸に囲まれて、立ち尽くしていた。青木綾子のウォッチバンドが、石のようにポケットを重くしている。

私の結婚は終わった。もう、どれくらい前からか分からないほど前から、とっくに終わっていたのだ。

残された問題は、ただ一つ。

これから、私がどうするか、ということだけだった。

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