第4章

 あの指輪――結婚式の日に、彼が自ら私の指にはめてくれたもの。最期の瞬間、犬たちに全身を食いちぎられながらも、私は残された力の限りにその手を握りしめ、胸の前に抱きかかえていた。それこそが、私たちが愛し合っていた何よりの証なのだと信じていたから。

 ゆっくりと視線を移し、修二の手を見つめた。彼の薬指には何もはめられていない。私たちの結婚指輪はなかった。ひょっとすると、最初から一度も身につけてなどいなかったのかもしれない。

 自嘲の笑みが、思わず喉の奥から漏れ出た。

「ああ」私の心など露知らず、修二はどこまでも優しい声で言った。

「あの仮面舞踏会は、俺と君の……すべてを変えるはずだった。悲しまないでくれ、麗奈」

 その甘く優しい響きに、心の奥底に封じ込めていた記憶が一気にフラッシュバックした。

 三年前、彼は他県の旧帝大に通っていた。

 あの頃、神崎家の屋敷は対立する組織から凄惨な奇襲を受けたのだ。

 銃撃戦は熾烈を極めた。うちの若い衆がなんとか敵を退けたものの、私を実の娘のように慈しんで育ててくれた家政婦の千代が、私を庇って流れ弾に倒れた。彼女は、私の腕の中で息を引き取った。

 大量の血を流す千代を目の当たりにして、私の精神は崩壊寸前だった。その時、私は部下に命じて修二に連絡を取らせたのだ。

 彼は夜を徹して横浜へと駆けつけてくれた。

 しかし、無数の弾痕が穿たれた屋敷の惨状と、すでに事態が収束しているのを見た途端、彼の表情は険しく曇った。そして大勢の部下たちの前で、私にこう言い放ったのだ。

「恵梨香、生死に関わる事態でもない限り、むやみに俺を呼び出すな。俺には大事な用があるんだ。お前のくだらない気を引く真似に付き合っている暇はない」

 極限の緊張状態にあり、恐怖でどうにかなってしまいそうだった私は、弁解すらできず、ただ彼にすがりついて泣きじゃくることしかできなかった。

 抱きついた瞬間、修二の体はびくっと強張った。それでも、彼は私を引き剥がそうとはしなかった。突き飛ばすこともしなかった。

 その日から私は、彼は口が悪いだけで本当は優しい人なのだと、おめでたくも信じ込んでいたのだ。

 今ならわかる。彼が私を突き放さなかったのは、麗奈と踊る絶好の機会をふいにしたことを嘆いていたからだ。あの時の沈黙は、惨劇に見舞われた私への同情などでは決してなく――愛する女のそばを無理やり離れさせられたことへの、行き場のない怒りと無力感の表れだったのだ。

 地下牢の外から、足音が響いてきた。

 西園寺組の幹部が中へ入ってくると、修二にスマートフォンを差し出した。電話の主は、西園寺の親父だった。『神崎修二、てめぇの嫁の無惨な姿、とくと拝んだようだな。で、どうする? この悪臭を放つ死体を持ち帰るか、それとも魚の餌として東京湾にでも沈めてやろうか?』

 修二は、冷ややかな視線を床の死体へと落とした。

「くだらん茶番はよせ、西園寺。そんな三文芝居が俺に通用するとでも思っているのか」

「恵梨香の底の浅い手口など、とうの昔にお見通しだ。どこぞの身代わりを用意して、顔面を潰して死を偽装するだと? 浅ましくて反吐が出る」

 修二はスマホを幹部へと放り投げ、スーツのジャケットの皺を直すと、変わり果てたその遺体に最後の一瞥すらくれることなく背を向けた。

「猶予はあと三日だ」修二は氷のように冷たい声で最後通牒を突きつけた。

「その間に、自分がどれほど性根の腐った人間か、恵梨香のやつにたっぷりと反省させろ。俺は麗奈と同窓会へ行く。あいつのくだらないかくれんぼに付き合っている暇はないんでね。同窓会が終わっても、まだ這い出てきて謝罪しないようなら、その『死体』とやらは好きに処分してくれて構わない」

 そう言い捨てると、彼は何の未練も躊躇いも見せず、真っ直ぐに歩き去っていった。

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