第169章 つり上げ

これで、もう迷う必要もない。

車内は静まり返っていて、かすかなエンジン音だけが耳に残る。

江島結奈はシートに身を預け、視線の端で隣の男を盗み見た。

彼は書類に目を落とし、黙々と目を走らせている。陽光に縁取られた横顔が、やけに整って見えた。

――何も覚えていない。

それなら、安心だ。

結奈は視線を引っ込め、窓の外へ目を向ける。

胸の奥に引っかかっていた小さな違和感が、ゆっくりとほどけていった。

彼女は気づかない。坂井礼司の口元に、薄い笑みがずっと浮かんだままだということに。

覚えていない?

あり得るはずがない。

あの夜の細部まで、彼は鮮明に覚えている。

照れて俯いた顔。...

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