第2章 私の腹の中で
御堂結奈は、声を失った。
「やめて……!」全身の力を振り絞るように、嗚咽まじりに叫ぶ。「……それ、あなたの子でしょう……!」
御堂斗真は情け容赦なく脚を引き、苛立ちだけを顔に残す。
「羊水穿刺はもうやらせた。腹の中の雑種が誰の種かなんて、知るか」
「だが雪音の病に役立つなら、雑種も無駄死にじゃない」
「いや……!」御堂結奈は、去っていく背中を目で追いながら、説明しようと身を起こそうとした。
違う。ほかの男なんて一度もない。あの子は、御堂斗真の血に決まっている――
けれど身体は、氷の海の底へ沈むみたいに重かった。周囲の音が、ぼやけて遠ざかっていく。
「大量出血だ!」医師たちの声が掠れて響く。血管に刺さる針の鋭い痛み。続いて、冷たい液体が勢いよく体内へ流し込まれる感覚。
それでも意識は暗闇の縁を彷徨い、霧みたいに薄れていった。
どれほど経ったのか。数分か、数時間か。途切れ途切れの言葉だけが、沈んだ膜を破って耳に届く。
「生まれてすぐ……手術台に……」
「……なんてこと……」
「心臓を……えぐり出した……」
御堂結奈の胸が、ぎゅっと締めつけられた。
はっと目を開く。身体は動かない。それでも、その言葉は焼けた鉄みたいに意識を灼いた。
「……子ども……」掠れた声。自分にも聞こえないほど小さい。
ベッド脇にいた使用人が、飛びつくように身を屈める。
「奥様! お目覚めですか。何か――」
「子ども……!」御堂結奈は使用人の手首を掴んだ。大出血の産婦とは思えぬ力で。「……私の子は……どこ……?」
使用人の顔がさっと青ざめる。
「わっ、若様は……子供部屋に……」
「連れていって!」御堂結奈は起き上がろうとし、縫合した腹が裂けるように痛んだ。だが止まらない。「今すぐ!」
「奥様、だめです! まだ出血が――」
「連れていって!!」御堂結奈は獣のように叫んだ。「でなきゃ窓から飛ぶ!」
使用人は震えながら、彼女を支えてベッドから下ろした。
御堂結奈は脚がふにゃりと崩れそうになりながらも歩く。踏み出すたび刃の上だ。腹のガーゼはみるみる血で染まる。それでも止まらない。
「心臓を……えぐり出した……」
そんなはずがない。斗真の言葉は脅しだ。あの男が、本当に風見雪音に息子を食わせるはずが――
廊下は長く、厚い絨毯が足音を吸い込む。別荘は不気味なほど静かだった。赤子の泣き声も、他の使用人の気配もない。あるのは自分の荒く痛む息だけ。
子供部屋は西棟。メインホールを抜ける必要がある。
ようやく辿り着いた扉は半開きで、中から風見雪音の鼻歌が聞こえた。柔らかいのに、ぞっとするほど陽気な旋律。
御堂結奈は扉を押し開ける。
風見雪音は背を向け、部屋の中央に置かれた巨大な保育器の傍に立っていた。ガラスには水滴が曇り、内部が見えない。
開く音に、風見雪音がゆっくり振り返る。
淡いピンクのセットアップ。完璧なメイク。口元に薄い微笑。
「お姉ちゃん、起きたの?」声は水のように優しい。「どうして起き上がったの。産んだばかりなんだから、休まないと」
御堂結奈の視線は保育器に貼り付いたまま。
「子ども……私の子……」
風見雪音の笑みが深くなる。
「子ども?……当ててみて?」
御堂結奈はよろめきながら保育器に飛びつき、震える手で曇りを拭った――
空だった。
「どこ!」御堂結奈は振り向き、風見雪音を睨みつける。「私の子はどこにいるの!?」
風見雪音の笑みは甘く、毒々しい。
「ここよ」彼女は自分の平らな腹に手を当てた。「お姉ちゃん。私、身体が弱いでしょう。でも生きたいの。だから、あなたの息子を少し借りたの」
時間が止まった。
御堂結奈の呼吸が止まる。
「……なにを……言って……」
「この子、もう私のお腹の中」風見雪音はにこにこ言う。今日の天気の話でもするように。
御堂結奈は頭蓋が割れるように痛み、視界が回転し、床に崩れ落ちた。
「……あんなに憎んでても……子どもは……あの人の子なのに……!」
「御堂斗真……それでも人間か……!」
「誰の子?」風見雪音は笑みを消した。「あの雑種は御堂怜央の種よ」
「八か月前――あなたが斗真のベッドに潜り込んだ夜。実はその前夜、あなたは怜央と寝たでしょう? だからこの子は、怜央の子」
御堂結奈の崩れ落ちる表情を楽しむように、風見雪音は言葉を重ねる。
「斗真が弟をどれだけ憎んでるか知ってるでしょ。弟の子を孕んでるのに、斗真の子だと嘘をつくなんて……許せるはずない」
「違う……」御堂結奈は首を振り続ける。「ありえない……私は怜央とは……あの夜が初めてで……」
「初めて?」風見雪音は小さく笑った。「お姉ちゃん、上手ね。でも証拠は揃ってる。親子鑑定で、白黒はっきりついている。この子は斗真とは親子関係がなくて、御堂怜央のDNAサンプルと高一致」
保育器のガラスを指でこつん、と叩く。
「だからね。斗真はあの子を、父親のところへ送ったの。家族は団欒しなきゃ。そうでしょ?」
空気が奪われる。息ができない。
風見雪音はさらに笑い、御堂結奈の前で身を屈め、耳元に息を吹きかけるように囁いた。
「斗真ね、最初は残りを犬にやるつもりだったの」
「もったいないから、花の肥料にしようって私が言った。庭の花を育てたら、毎年見られるもの」
御堂結奈の瞳孔が針のように縮む。
「……斗真、承諾したわ」
「あ゛あ゛あ゛あ゛――!!!」
御堂結奈は人の声とは思えぬ叫びを上げ、風見雪音に飛びかかった。喉を潰すつもりで手を伸ばす。
風見雪音は軽く身を躱す。扉の外にいた男の看護助手が二人、すぐさま突入し、左右から御堂結奈をがっちり拘束した。
「放して! 悪魔! 返して! 私の子を返して!」御堂結奈は狂ったように暴れた。傷口が裂け、病衣が一瞬で血に染まる。血が裾を伝い、絨毯にぽた、ぽたと落ちる。それでも痛みなど感じない。あるのは憎悪と狂気だけ。
風見雪音はゆったり後退し、涼しい顔で言った。
「お姉ちゃん、落ち着いて。精神の発作が出たら困るもの」
御堂結奈は床に崩れ、絨毯を爪で掻いた。爪が割れ、血が滲む。
顔を上げる。充血した目。そこに宿るのは、瀕死の獣の怨毒。
「風……見……雪……音……」歯の間から削り出すように。「……殺す……」
「私を?」風見雪音はくすりと笑う。「お姉ちゃん、今は自分の心配をしたほうがいいわ」
「斗真が言ってた。子どもの後始末が済んだら、あなたを精神病院に送るって。だって――自分の子を殺した狂女は、閉じ込めておかなきゃ。人に迷惑をかけるでしょう?」
