第3章 おばあさんが死んだ
「でもね、来年の春になったら、私のいちばん好きな薔薇がきっと綺麗に咲くの。そのとき精神病院まで迎えに行ってあげる。……彼が育てた花、一緒に眺めましょ」
御堂結奈の身体が、びくり、と大きく震えた。憎悪と絶望が限界まで研ぎ澄まされ、骨の一本一本を内側から砕こうとする。
彼女の子。命を削って産み落とした子は、生きたまま心臓を抉り取られ、風見雪音に喰われた。
そして御堂斗真――少なくとも、子どもだけは守ると。どこかでそう信じていた男は、風見雪音の悪意に満ちたでっち上げを鵜呑みにし、己の血肉を殺せと命じたのだ。
「……はは」
結奈がふいに笑い出す。空っぽで、壊れた笑い。
「はははは……!」
風見雪音が眉をひそめる。
「狂ったの?」
「狂ったのよ……」
結奈は顔を上げた。頬は涙でぐしゃぐしゃだというのに、瞳の奥だけが異様に燃えている。
「あなたたちが、私を狂わせた……風見雪音。報いが来る……あなたも、御堂斗真も……必ず」
「報い?」
雪音は鼻で笑い、軽く肩をすくめた。
「お姉ちゃん、そんなことより、心配することがあるでしょ」
声は弾むほど軽い。なのに、刺すように残酷だった。
「知らないの? お昼におばあちゃん、死んだわ」
結奈の呼吸が、すん、と止まった。
「……何、言って……」
信じられない目で雪音を見る。
「おばあちゃん? どのおばあちゃん……?」
「どれって」
雪音は首をかしげる。
「あなたが江島家に戻ってから、あの頭のおかしくなったお母さん以外で、唯一ちゃんと可愛がってくれたおばあちゃんよ。江島家の大奥様。私の祖母で、あなたの……おばあさま」
言葉の一つ一つが氷の錐になって、結奈の胸を穿つ。
「……嘘……」
首を振る。涙があふれ、止まらない。
「おばあちゃんは元気だった……先月だってビデオ通話して……赤ちゃんが生まれたら、手編みの小さな服を作るって……」
「先月はね」
雪音はため息をついた。そこに悲しみは欠片もない。
「脳出血。助からなかったの。遺言にはあなたに遺産も残してたけど……今のあなたじゃ、相続する資格ないかもね」
結奈は壁に手をつき、よろめきながら立ち上がろうとする。
「どうして急に……薬もちゃんと飲んでたし、健診だって――」
「怒りで倒れたのよ」
雪音が遮る。甘い声。蜜のように、べったりと。
「お姉ちゃん。あなたが木に吊られて産む動画と、集団でやられてる動画、全ネットのトレンド1位よ」
手提げからスマホを取り出し、操作して、結奈の目の前に突きつけた。
画面には、裸で吊られたまま出産する結奈が映っていた。角度は意地が悪いほど狙い澄まされ、肝心なところには薄いモザイクがかかっている。それでも、顔ははっきり判別できる。
煽情的な文字。耳障りに陽気な音楽。コメントはすでに百万を超えていた。
「大奥様はそれを見て、その場で倒れた。病院に着いた頃にはもう……医者が言ってたわ。激しい怒りが胸に突き上げるせいで血管が破裂したって」
結奈の世界が、音もなく崩れ落ちた。
子どもは殺され、奪われ、弄ばれ、肥料にされ、喰われた。
おばあさまは、偽造された恥辱の映像で憤死した。
「……あなたが……」
結奈は呟く。声は砂みたいに乾いていた。
「おばあちゃんは、あなたにも……叔母さんにも……良くしてくれたのに……どうして……」
「良くしてくれた?」
雪音は冷たく笑い、目を細める。
「あなたのお母さんは娘を失って壊れた。祖母はそれを可哀想がって、あなたを可愛がった。でも私の母は実の娘なのに、私たちには他人みたいだった」
吐き捨てるように続ける。
「江島家は今、あなたを恥だと思ってる。認めたくないのよ。死んだことだって誰も知らせなかった。私が、姉妹の情けで教えてあげただけ」
雪音はしゃがみ込み、結奈の虚ろな瞳を覗き込んだ。
「お姉ちゃん。おばあちゃんに会いに行く? 最後の顔、見たい?」
結奈の唇が震える。声にならない。
「連れていく」
雪音は立ち上がり、ぱん、と手を打った。
廊下で待っていた男の看護助手が二人、左右から結奈を抱え上げる。
「着替えさせて」
雪音が命じる。
「死人に会いに行くのに、みっともないのは困るから」
結奈はぼろ布みたいに引きずられ、黒いワンピースを着せられた。新品なのに二回り大きく、痩せ細った身体にだらりと掛かって、骨ばかりが浮いて見える。
黒塗りの車に押し込まれる。隣で雪音は優雅に口紅を引き直した。
車は、江島家の本邸の前で止まる。
引きずり下ろされた結奈の脚は、力が入らずふらついた。さっきの抵抗で腹の傷はさらに裂け、温かな血が太腿の内側を伝い、黒い布に吸い込まれていく。
――痛みは、もう感じない。
頭の中にあるのはひとつだけ。最後に、会う。
雪音は黒い傘を差し、先に歩く。振り返り、唇の端をゆるく上げた。
「お姉ちゃん。ちゃんとおばあちゃんにお別れしてね。だって……これが最後だから」
結奈は歯を食いしばり、支える手を振り払った。自分で、よろめきながら門をくぐる。
姿を現した瞬間、室内のざわめきがぴたりと止まった。
何十もの視線。怯え、目逸らし、嫌悪。温情だけがない。
「なんで来たの?」
親戚の一人が小声で言う。だが、十分に響く声量だった。
「御堂結奈が江島家に入れるなって――」
「御堂結奈も甘いよな。大奥様がいない今、誰が庇うんだよ」
「疫病神だ。御堂社長が江島家に当たってるのも、全部あいつのせいだ」
結奈は聞こえないふりをした。いや――もう、刃が刺さる感覚すら麻痺していた。
彼女の力はすべて、寝台へ向かう数歩に注がれる。
「おばあちゃん……」
床に膝をつき、震える身体のまま白布へ手を伸ばす。
「結奈……来たよ……」
「触るな!」
鋭い声が、空気を切り裂いた。
江島昭二が駆け寄り、乱暴に結奈の手首を掴む。骨がきしむほどの力。
「御堂結奈! 誰が来いと言った?!」
顔にあるのは、母を失った悲嘆ではない。露骨な嫌悪だけだった。
「まだ江島家を巻き込む気か!」
結奈は無理やり顔を上げた。十二年間、父と呼んだ男。
その目は冷たく、嫌悪に濁っている。以前より、もっと。
「……お父さん……」
掠れた声が喉の奥で擦れる。
「私は……ただ……最後に……」
「黙れ!」
昭二は結奈の手を振り払う。汚物に触れたみたいに。
「父と呼ぶな! 俺はお前の父じゃない! 江島家はお前と関係ない!」
親戚たちを見回し、声を張り上げる。まるで、ここにいない誰かへ向けるように。
「御堂社長の言葉を忘れたのか?! この女のせいで御堂グループは全部の取引を切った! 市の西側の案件は横取り、銀行は返済を迫り、取引先は契約破棄! 江島家が立ち行かないのはこいつのせいだ!」
震える指が、結奈を指し示す。
「御堂社長は言った。江島家がまだお前を身内だと言うなら、業界から完全に消してやると! 江島家を道連れにしたいのか!」
――そういうことだった。
御堂斗真が、江島家の生死を人質にして。
彼らに、結奈を完全に切り捨てさせたのだ。二度と線を越えないよう、徹底的に。
