第4章 死ぬには早すぎた
そのとき、風見雪音がのんびりと前へ出てきた。祭壇の中央に据えられた寝台へ視線を滑らせ、ほんの少しだけ哀れむような顔を作る。
けれど、その「惜しむ気配」は羽毛ほど軽く、瞳の奥には欠片も届いていなかった。
「はぁ……おばあちゃん、逝くのが本当に間が悪いわ」
小さく息を吐く。声量は抑えているのに、場内が静まり返っているせいで、その甘い声は容易く全員の耳へ落ちた。
「来月、私の誕生日でしょう? 本当はお祝いのお酒でも一杯、飲んでもらおうと思ってたのに」
雪音は江島昭二へ向き直り、困ったように首を傾げる。
「おじさん、今すぐお葬式を出すのはちょっと待って!おばあちゃんのご遺体は……安全な場所で、ひとまず預けておいて。私の誕生日が終わってから弔えばいいでしょう?」
その一言で、さっきまで御堂結奈を糾弾していた親戚たちでさえ、ぽかんと固まった。
「雪音……それは、さすがに筋が……」年嵩の族老が顔色をうかがうように言う。「亡くなった方は大事にして、土に――」
「筋?」
風見雪音が眉を上げ、口元だけで笑う。
「御堂斗真が言ってたの。最近の北嶺市は物騒だから、私には外出を控えろって。おばあちゃんの葬儀なんて、客が大勢集まるでしょう? もし変なのに当てられたり……それとも、よくないものが紛れ込んできて、私が怖い思いをしたらどうするの?」
「御堂斗真」という名前を、わざと丁寧に、重く置く。ふっと視線が流れ、江島昭二の顔がみるみる青ざめた。
「だから、おばあちゃんは冷蔵庫で一か月。ね」
まるで献立でも決めるような口ぶりで、江島家の大奥様の行き先を決めてしまう。
「誕生日の宴が終わって、気分が良くなったら火葬して埋葬。おじさん、いいわね?」
江島昭二の唇がわなわな震えた。若く美しいその顔に宿る氷の残酷さ。そして、御堂斗真のやり口を思い出したのだろう――結局、彼は何も言えず、ぎこちなく頷くしかなかった。
「じゃ、決まり」
風見雪音は満足げに微笑み、視線を床に戻した。そこに跪く御堂結奈へ、濃い嘲りを絡めながら。
「お姉ちゃん、見た? おばあちゃん、死んでも私のために道を空けてくれるの。感動しちゃうでしょう?」
御堂結奈は、ゆっくりと顔を上げた。
風見雪音を見る。
自分を慈しんでくれた祖母の亡骸を、誕生日の邪魔になるというだけで冷蔵庫へ押し込もうとする女を。
自分の子を奪い、その骸で花を育てようとした悪魔を。
すべてを壊し尽くしてなお、艶やかに立ち、ここで我が物顔に命じる仇を。
その眼の底の冷えに刺され、風見雪音の胸がひゅっと跳ねた。だがすぐに取り繕い、挑むように顎を上げる。
「なに? お姉ちゃん、文句でもあるの? 残念だけど、ここであなたに口を――」
言葉が途切れた。
御堂結奈が、動いたからだ。
どこから湧いたのか分からない力で、地面を蹴って跳ね起きる。一直線に、風見雪音へ。
速い。鋭い。相打ち上等の決意だけで編まれた、獣の突進。
「きゃっ!」
風見雪音が悲鳴を上げた瞬間、身体が弾かれたように倒れた。後頭部が、冷たいタイルにごんっと叩きつけられる。
御堂結奈が馬乗りになった。両手が、風見雪音の喉をぎゅっと掴む。
血に濡れた指。浮き上がる青筋。容赦なく締まっていく力。
「死ね! 私の子と一緒に地獄へ行け! おばあちゃんに頭を下げて詫びろ!」
御堂結奈の咆哮が、祭壇に反響する。目は狂気の赤に染まっていた。
「返せ! 私の子を返せ! おばあちゃんを返せ!」
風見雪音の顔色が、赤から紫へと変わる。眼球がせり上がり、彼女は必死に御堂結奈の手を引き剥がそうとするが、びくともしない。
恐怖が、ようやく風見雪音の瞳を支配した。いまにも死にそうなほど弱々しい女が、どうしてこんな力を。
「は、早く! 引き剥がせ! この狂女を!」
江島昭二がようやく我に返り、魂の抜けたような声で叫ぶ。使用人とボディーガードが慌てて飛びつき、何本もの腕が御堂結奈に絡みついた。
だが結奈は喉を掴んだ手を離さない。爪が皮膚へ食い込み、赤い筋が滲む。殴られようが引きずられようが、ただ一つの念だけで固まっていた。
殺す。
この悪魔を、殺す。
バンッ!
轟音。祭壇の大扉が外から蹴り破られた。
御堂斗真の巨体が入口に立つ。まとった空気は凍てつく刃で、踏み込むだけで室温が下がったようだった。駆けつけたのだろう、スーツの上着がわずかに乱れている。
中の光景を見た瞬間、端正な顔が、氷の仮面に塗り潰される。
「やめろ!」
怒号が雷のように落ち、引き剥がそうとしていた連中の手が、反射的に止まった。
御堂斗真は大股で突進し、御堂結奈の手首を掴むと――躊躇もなく、力任せに捻り上げた。
「――っ!」
ゴキッ。
乾いた骨の音。
御堂結奈が呻き、指が強制的にほどける。御堂斗真はそのまま彼女を引き剥がし、ゴミでも投げ捨てるみたいに床へ叩きつけた。
結奈の身体が硬いタイルに打ちつけられ、折れた手首から焼けるような痛みが突き抜ける。彼女は身を丸め、血の混じった唾を咳とともに吐いた。
御堂斗真は、彼女を一瞥もしない。
すぐに膝をつき、紫色に変わった風見雪音を慎重に抱き起こす。胸に抱え込み、背をさすり、喉元の紫紅の痕と滲む血を確かめる眼差しは、痛ましさで揺れていた。
「雪音……! 雪音、大丈夫か!」
声が、見たこともないほど乱れている。
「……斗真……」
風見雪音は震えながら彼の胸に縋りつき、涙を一気に溢れさせた。濡れた睫毛の下で、いかにも可哀想な顔を作る。
「もう……お姉ちゃんに殺させて……私が悪いの……私が、あの動画を守れなかったから……おばあちゃんが見ちゃって……」
「お前は悪くない」
御堂斗真は必死に宥め、抱き締める腕を強める。そして顔を上げ、床に転がる御堂結奈を見たとき――瞳は暴虐の色に染まっていた。
「てめえ……この狂人が。命だけは残してやったのに、雪音に手を出すとは!」
御堂結奈は、痛みに震えながら顔を上げた。
風見雪音を宝物みたいに抱く男。
自分には骨の髄まで憎悪を向ける男。
折れた手首の痛みなど、胸の痛みの万分の一にもならない。
「斗真……目が潰れてるの?」
御堂結奈は彼を睨み、喉を裂くように叫んだ。
「あなたが抱いてるのが……本物の悪魔よ……!」
「黙れ!」
御堂斗真が叩き落とすように言い切った。視線はまるで肉を削ぐ刃。
「この期に及んで雪音に罪をなすりつけるのか。結奈……お前の悪辣さを、俺は見誤っていた」
彼は風見雪音を抱き上げ、踵を返す。これ以上ここに置いておくのも汚いと言わんばかりに。
「斗真!」
御堂結奈は全身の力を振り絞り、彼を呼び止めた。声は掠れているのに、言葉は鋭く通った。
「一度も疑ったことないの? あの夜の監視映像、あの動画、あの親子鑑定……私を指す証拠だけが、都合よく完璧に揃いすぎてるって。誰かが私を嵌めてる可能性を、考えたことはないの?」
御堂斗真の足が、ぴたりと止まった。
