第5章 犬小屋

彼は振り返らなかった。背中だけが、石みたいに強張っている。

腕の中の風見雪音がふるりと震え、顔をいっそう深く彼の胸へ埋めた。泣き声を噛み殺すように、か細く訴える。

「斗真……もう帰ろ……首がすごく痛いの……こわい……」

御堂斗真の身体から、わずかに力が抜けた。彼は視線を落とし、風見雪音の首筋に残る目を覆いたくなるほどの痕を見つめる。さきほどの御堂結奈の、殺意じみた狂乱――それを思い出した瞬間、胸の奥に残っていた最後の疑念は、怒りの濁流に呑み込まれた。

冷たく言い捨てる。刃のような声。

「結奈、もう芝居はやめろ。今日からお前は御堂家で反省しろ。俺の許可なく、一歩たりとも外へ出るな」

「雪音にもう一度手を出すか、ほかに何か余計な真似をしたら……」

言葉が途切れた。次いで、隠しもしない殺気。

「本当に死体になっても、俺は構わない」

そう言い終えると、御堂斗真は風見雪音を抱いたまま、祭壇を後にした。振り返りもしない。

御堂結奈は床にへたり込み、げほ、と深く咳き込んだ。肺の奥まで、ずきりと痛む。

それでも視線だけは、寄り添って去っていく背中を追う。寝台に静かに横たわったままの祖母の亡骸を見つめる。周囲の江島の人間たちの、怯え、嫌悪、そして愉悦――その混ざり合った目を受け止める。

ちぎれた手首は刺すように痛み、腹の傷からはまだ血が滲んでいる。

けれど、それ以上に心の中が荒涼として冷えきっていた。何も生えない、何も温まらない絶望。

御堂斗真のボディーガードたちが慌ただしく踏み込んできた。周囲の反応など眼中になく、御堂結奈の襟元を雑に掴み、荷物でも引きずるみたいに外へ拖っていく。

御堂結奈はもう抵抗しなかった。虚ろな目を見開いたまま、されるがまま。

江島の人間たちは、それを見送った。かつて「江島家のお嬢様」と呼ばれた女が、こんな屈辱の形で連れ去られるのを。

屋敷へ車が滑り込む頃には、空は夕闇に染まりかけていた。

風見雪音はすでに肌触りのよさそうな部屋着に着替え、首には真っ白な包帯を巻いている。御堂斗真の胸に寄りかかり、小声で何か囁いていた。

御堂斗真は身をかがめてそれを聞き、目だけを柔らかく細める。さっき祭壇で見せた暴虐と、まるで別人だった。

車は本館の前で停まった。

御堂斗真は風見雪音を大切そうに抱きかかえて降ろし、灯りの溢れる別荘へ一直線に歩いていく。後ろで引きずり降ろされる御堂結奈へは、ひとつの視線すらくれない。

「御堂社長のご指示です」

ボディーガードの頭目が、冷えた声で執事に告げた。

「奥様は裏庭の特別室へ。きっちり『面倒を見ろ』。風見さんの許可がない限り、誰も近づけるな。治療も一切させるな」

執事はわずかに腰を折る。

「承知いたしました」

――特別室?

御堂結奈は麻痺したまま、屋敷の奥へ運ばれていく。

手入れの行き届いた庭園を抜け、きらりと光を跳ね返すプールを回り込み、辿り着いたのは人目のない隅だった。

頑丈な金網で囲われた広い区画。御堂斗真が飼っている、獰猛な護衛犬の犬舎だ。

その犬舎の脇に、新設された低いコンクリートの独房があった。窓はない。あるのは分厚い鉄の扉と、椀が一つ通る程度の小さな穴だけ。

鉄扉が開くと、獣の生臭さと黴が混じった湿った空気が、むわっと顔にまとわりついた。

中はがらんとしている。床はざらついたコンクリート。隅に乾いた藁が少し。

「入れ」

ボディーガードが容赦なく背中を押す。

御堂結奈がよろめいて中へ入った瞬間――

ガァンッ。

鉄扉が閉まり、鍵のかかる音が冷たく耳を刺した。

世界が一気に暗くなり、死んだように静まり返る。

扉の下の小さな穴から、かすかな光だけが差し込む。

御堂結奈は氷みたいな床に尻もちをついた。折れた手首と腹の傷が同時に悲鳴を上げ、視界がちかちかと暗くなる。

ざらざらの壁に背を預け、荒く息を吸う。呼吸のたびに傷が引き攣れ、熱い痛みが走った。

どれほど経ったのか。

外で足音と犬の吠え声がする。

続けて、扉の穴が開き、ステンレスの器が乱暴に押し込まれた。中身は、何だかわからない半椀のどろどろ。酸っぱい臭いが鼻を突く。

「お食事ですよ、御堂奥様」

使用人の声には、露骨な嘲りが混じっていた。

「風見さんが心優しいから、わざわざ台所に『栄養食』を用意させたんですって」

御堂結奈は器を見つめ、胃の奥がぐらりと揺れる。

それでも、わかっていた。食べなければならない。

失血と産後の衰弱。このまま何も口にしなければ、すぐに死ぬ。

――今は、死ねない。

自分の子の無念を、誰が晴らす。御堂結奈は、子どもが御堂斗真の子だと確信していた。親子鑑定は、風見雪音がすり替えたに決まっている。

震える左手を伸ばし、器を自分の前へ引き寄せる。息を止め、吐き気を押し殺しながら、少しずつ喉へ流し込んだ。

一口ごとに飲み下すのは、屈辱と憎悪。

食べ終えても腹は満たされず、むしろ空腹が鋭くなった。

夜が深まると、犬舎のドーベルマンとロットワイラーが落ち着かなく歩き回り、低く唸り声を上げ始めた。見知らぬ気配を嗅ぎ取っているのだ。新しい隣人に、警戒と敵意を向けている。

翌朝。

外の物音に叩き起こされる。

扉の隙間と小さな穴越しに見えたのは、犬舎から少し離れた空き地で動く庭師たちだった。土を起こし、穴を掘り、幼い薔薇の苗を一本ずつ丁寧に植えていく。

風見雪音は洒落た日傘を差し、傍らで指図をしていた。

首の包帯は、いつの間にか小さな絆創膏に変わっている。ほとんど目立たない。

「そこ、うん……もっと詰めて植えて」

弾んだ声。

「来年の春には、ここをいちばん綺麗な薔薇の海にしたいの。肥料は最高のを使って。手を抜かないでね」

庭師たちは「はい、はい」と頭を下げる。

御堂結奈の胸が、どすんと沈んだ。

空気の中に、微かに漂う甘ったるい生臭さ。新しい土の匂いに混じって、吐き気を誘うそれがある気がした。

風見雪音が、こちらの視線に気づいたように振り向く。

コンクリートの独房の方へ、甘くて――毒に満ちた笑みを向けた。

そして、優雅に手を振る。口の形だけで、音もなく告げる。

「お姉ちゃん、おはよう。新しいおうち、気に入った?」

御堂結奈は下唇を噛みしめた。血の味が広がるほど強く。それでも、無理やり目を逸らした。

その先の日々は、地獄そのものだった。

食事は一日二回。あの穴から押し込まれるだけ。

量は雀の涙、味は耐え難い。砂や土が混じる日もある。

生きるために、御堂結奈は飲み下すしかなかった。

しかも彼女は花粉に重いアレルギーがある。

苗が育つにつれ、空気に花粉が増えていった。くしゃみが止まらず、鼻水が垂れ、目は赤く腫れて痒い。喉は紙やすりで削られたみたいにひりつき、息がどんどん苦しくなる。

狭いコンクリートの箱は風が通らず、花粉は逃げ場を失う。夜中、窒息しそうな感覚で跳ね起き、口を開けて必死に空気を吸う。次の瞬間にも息が詰まりそうで。

そんな状態で、あの食事量では命を繋げない。

みるみる痩せ、頬は落ち込み、肋骨が一本一本浮き出た。

ある日、運ばれてきた「飯」はいつもより少なかった。しかも途中でぶちまけたらしく、残っているのは器の底の残渣だけ。

焼けるような飢えが胃を舐めた。

犬舎の方から、飼育係が大きな犬たちに新鮮な生肉とドッグフードを放り込む音がする。

犬たちは嬉しそうに食らいつき、満足げな唸り声を漏らした。

その音を聞きながら、御堂結奈の脳裏に――狂った考えが、じわりと芽を出した。

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