第6章 お前の血は彼女に使える
飼育係が立ち去ったあと、彼女は鉄扉の隙間から、餌皿にまだ少しだけ残っているドッグフードと、いくつかの肉片を見つけた。
生きたい。
その本能が、尊厳も恐怖も、全部ねじ伏せた。
彼女は傷のないほうの手で、扉の下に開いた給餌用の小さな穴を、必死に、少しずつこじ開けていく。縁の荒い鉄板が指先を裂き、血がだらだらと流れ出す。それでも痛みなんて感じなかった。
そして腹ばいになり、腕を穴からできる限り伸ばして、餌皿の方へ――じり、じりと――指先を這わせた。
犬たちは警戒した目で彼女を見つめ、喉の奥で低く唸り、警告の音を鳴らす。
それでも、空腹には勝てない。
指がようやく皿の縁に触れた瞬間、彼女はぐっと力を込めて引き寄せた。距離が縮まる。次の瞬間には、なりふり構わず中身を掴み、ドッグフードも生肉の欠片も、手当たり次第に口へ押し込んだ。
ざりざりした粒が喉を擦り、生肉の濃い生臭さが鼻を突く。なのに彼女はむせながらも飲み込み続けた。まるでこの世でいちばんのご馳走みたいに。
そのとき、いちばん大きなドーベルマンが激昂した。
低い唸り声を上げて突進し、彼女が引っ込めきれなかった小腕に、がぶりと噛みつく。
「――あ゛っ!!」
激痛が喉を突き破り、悲鳴が漏れた。
鋭い犬歯が肉に深々と食い込み、血が一気に噴き出す。
彼女は必死に身をよじり、足で鉄扉を蹴りつけた。ガンッ、ガンッと鈍い音が独房に響く。
騒ぎに気づいた使用人が遠くから駆けつけてきた。だが犬を追い払うどころか、露骨に顔をしかめ、面白がるように眺めている。
「うわ、奥様、腹減りすぎて頭おかしくなった? 犬の飯まで奪うとか」
「自業自得でしょ。風見さんに手ぇ出した罰だよ」
「放っとけ放っとけ。少しは痛い目を見せて、懲りさせた方がいい!」
御堂結奈の腕の傷が骨が覗くほど深くなり、床が血でぬらぬらになるまで――その使用人はのんびり口笛を吹き、ようやくドーベルマンを呼び戻した。
犬は口を離し、血のついた牙をぺろりと舐めると、侮蔑するように彼女を一瞥し、悠々と自分の縄張りへ戻っていった。
御堂結奈はその場に崩れ落ちた。腕はぐちゃぐちゃで、血がどくどくと溢れ続ける。
犬に噛まれた傷は化膿し、重い花粉アレルギーによる気道の腫れも重なって、御堂結奈は高熱と窒息の淵で三日間もがいた。
四日目の朝、コンクリートの独房の鉄扉が、ようやく開く。
刺すような光が雪崩れ込み、御堂結奈は隅の藁の山で、身体を丸めたまま意識が朦朧としていた。
誰かが彼女を持ち上げ、担架に載せる。揺れ、揺れ、遠ざかる感覚。
次に少しだけ意識が戻ったとき、彼女は清潔で――豪奢と呼べるほどの部屋のベッドに寝かされていた。
屋敷の離れの客間だろう。空気は澄み、花粉の匂いがしない。腕の傷は洗浄され、縫合され、きちんと包帯が巻かれている。
白衣の医師が点滴を調整していた。薬液が一滴、また一滴と血管へ落ちていき、冷たく心地よい感覚が熱と炎症を和らげていく。
御堂斗真……やっと、風見雪音の本性に気づいたの?
暗闇に差した細い光みたいな思いが、死んだ湖面に小さな波紋を広げた。可能性なんてほとんどないのに、絶望の底では、どんな希望でも掴んでしまう。
――扉が、そっと開く。
御堂結奈は重い瞼の下で眼球を動かし、そちらを見た。
入ってきたのは、やはり御堂斗真だった。
相変わらずスーツ姿で、整いすぎた顔を崩しもしない。ベッド脇に立ち、彼女を見下ろす。
「起きたか」
声には感情がなかった。
御堂結奈は口を開こうとしたが、喉が乾ききって、息が掠れるだけだ。
御堂斗真は医師に目で合図し、退室させた。
部屋に残ったのは、二人きり。
「お前の血液型は、希少なRh陰性だ」御堂斗真が淡々と言う。「雪音は定期的に輸血が必要で、血液型も同じRh陰性」
御堂結奈の目が、わずかに見開かれた。
「北嶺市の中央血液センターは在庫が足りない。雪音は待てない」御堂斗真は彼女を見た。温度の欠片もない視線で、冷徹に計算するように。「お前の血が使える」
――だから、助けたんじゃない。
真実に気づいたからでもない。
ただ、彼女の血が、風見雪音の役に立つから。
胸の奥で灯った微光は、音もなく消え、さらに深い闇の海底へ沈んだ。
御堂結奈は笑いたかった。だが口角を動かす力すらない。
「今日から、週一回。400ccだ」御堂斗真の口調は、業務連絡そのものだった。「身体をちゃんと戻せ。雪音への供血を遅らせるな」
御堂結奈は目を閉じた。涙だけが、音もなく目尻から滑り落ちる。
犬小屋から引き上げ、治療したのは――新鮮な血袋として飼い直すため。
御堂斗真は彼女の青白い顔と涙を見て、ほんのわずかに眉を寄せた。
けれど、その揺らぎはすぐ押し殺され、声が冷え切る。
「だが、お前の穢れた血が雪音の身体に入ると思うと……」
一拍置き、嫌悪を隠そうともせず続けた。
「採血の前に、消毒液で頭のてっぺんから足の先まで、内側も外側も徹底的に洗え。特に――何人もの男に触られた、あの辺りはな」
御堂結奈の身体がびくんと震えた。恐怖ではない。屈辱と憎悪が限界まで張り詰め、壊れかけの躯を内側から突き破りそうだった。
自分を、何だと思っている。
御堂斗真はそれ以上彼女を見ず、踵を返して出ていこうとした。
「御堂斗真……!」
御堂結奈がありったけの力で、しゃがれ声を絞り出す。
彼の足が止まった。
「あなたは、あれが何者だと思ってるの?」絶望に尖った声が、刃みたいに震える。「嘘つきで、陰険で、卑しくて、いちばん残酷なのは風見雪音よ! 私は血を全部抜かれても、あんな吐き気のする女にだけは使わせない!」
御堂斗真の背中が、ぴたりと固まった。
「黙れ!!」
御堂斗真は振り向きざま、目を血走らせてベッドへ数歩で戻ると、御堂結奈の顎を鷲掴みにした。骨が砕けるほどの力。
「結奈! 戯言で俺と雪音を引き裂けると思ったか。雪音がどんな人間か、俺がいちばん知っている!」唾が飛ぶほどの勢いで言い募る。「あいつは俺を守るために、踏みにじられることすら受け入れた。俺のためなら死ねる女だ!」
荒い呼吸のまま、御堂結奈を睨み据える。
「それに比べてお前はどうだ。権力に縋るためなら手段を選ばず、婚約者すら殺した女が――雪音を疑う資格がどこにある!」
顎が痛みに痺れ、涙が滲む。
けれど胸の内は、皮肉でいっぱいだった。
御堂斗真みたいな冷たい男が、幼い頃の恩だけはこんなにも大事にする。
――彼女には理解できない。
十二歳で江島家に引き取られてから、彼女はそれ以前の記憶をすべて失っている。彼女にとって幼少期は、ただの空白だ。
それでも、その救いの恩がどうして自分の身体で返されなきゃいけない?
彼女の身体だって、江島家で十年かけてようやくまともになったのに。
「斗真……本当に償いたいなら」御堂結奈は彼の赤い目を見返し、一語一語を釘のように打ち込んだ。「いっそ安楽死させてあげたら? 病気で苦しむくらいなら」
「お前――!」
御堂斗真の怒りが爆ぜ、手が振り上がった。
