第7章 全身消毒
御堂結奈は、きつく目を閉じた。
彼はその青白く痩せた顔を見つめ――どうしても手が出なかった。
「お前に選択肢はない」
冷たく言い捨てると、彼は大股で部屋を出ていく。
バタン、と扉が乱暴に閉められた。
御堂結奈はベッドに崩れ落ちた。顎はひりつくほど痛いのに、胸の奥だけが氷みたいに麻痺している。
ほどなくして、がっしりした体格の看護助手が二人入ってきた。手には鼻を刺す消毒液のバケツをいくつも提げている。
「御堂社長のご指示です。奥様は全身消毒を」
そのうちの一人が無感情に言い、ためらいもなく薄い掛け布団を剥いだ。
御堂結奈は抵抗しない。ただ目を閉じた。
次の瞬間、冷たい高濃度の消毒液が容赦なく頭から浴びせられる。肌の一寸たりとも逃さない勢いで。
目に入れば、焼けるように痛む。鼻と口に流れ込めば、むせ返って咳が止まらない。まだ塞がっていない産道や腕の傷に沁み込んだときは、骨まで削られるような激痛が走った。
ざらついたブラシで、ぐいぐいと擦られる。まるで汚物まみれの器具でも洗うみたいに。
皮膚は真っ赤に腫れ、ところどころ擦り切れて血が滲む。その上から消毒液が染み込み、御堂結奈の身体はびくん、びくんと痙攣した。
「ここ……それに、ここも……男に触られたんでしょ。念入りに消毒しないと」
感情の欠片もない声。手つきだけが、さらに荒くなる。
屈辱が、津波のように押し寄せて彼女を呑み込んだ。
それでも御堂結奈は唇を噛みしめる。声は出さない。
泣かない。
縋らない。
御堂斗真と風見雪音の前では、涙も懇願も一番役に立たない。
「消毒」は、ほぼ一時間続いた。
看護助手がようやく手を止めたとき、御堂結奈は全身びしょ濡れで、皮膚は赤く腫れ、細かな傷と薬液に焼かれた跡だらけになっていた。濡れたベッドに横たわり、息も絶え絶えだ。
医師が入ってきて傷の手当てをし直した。目の奥にほんの少しだけ憐れみが揺れたが――結局、何も言わない。
屋敷の反対側、本館の寝室。
風見雪音はベッドのヘッドボードにもたれていた。顔色はやや青いのに、目は妙に澄んでいる。
御堂斗真が口元へ運ぶ補血の薬膳を、彼女はちびちびと飲んだ。
「斗真……お姉ちゃんに、あんなことして……やりすぎじゃ……」
言いかけて、止める。ちょうどいいところで、痛ましさを滲ませる視線。
御堂斗真の手が一瞬止まる。低い声。
「当然だ。あいつはお前に返すべきものがある。お前の身体が、何より大事だ」
風見雪音は彼の胸にすり寄り、柔らかく囁いた。
「ただ……怖いの。お姉ちゃんが私たちを恨んだらって」
「恨む?」
御堂斗真は冷たく笑う。目が氷のように沈む。
「恨む資格がどこにある」
そう言いながら――脳裏に、御堂結奈の虚ろで、悲しみに沈んだ目がよぎった。
彼は苛立たしげに頭を振り、その得体の知れない感情を押し潰す。
「考えるな。休め。来週には……あいつの血が使える」
風見雪音は従順に頷く。
御堂斗真から見えない角度で、唇の端だけが、満足げに吊り上がった。
黄昏どき。
御堂結奈の部屋の扉が押し開けられ、風見雪音が一人で入ってきた。
「お姉ちゃん、案外元気そうね?」
御堂結奈はベッドヘッドにもたれ、冷え切った目で見返す。何も言わない。
風見雪音は気にした様子もなく窓へ行き、カーテンに指をかけて弄ぶ。
「大丈夫よ。私を焼き殺そうとしたんだもの。斗真が許すわけない」
微笑みながら、ライターをカーテンの裾へ寄せた。
御堂結奈の瞳孔がきゅっと縮む。
「シュッ――」
火の舌が跳ね、乾いたベルベットを一気に舐め上げた。
燃え広がるのはあっという間。黒い煙がむくむくと立ち上る。
御堂結奈は火がついた瞬間、ふらつきながらベッドを降りた。
煙が喉を刺し、げほげほと激しく咳き込む。
灼けた熱波が顔面を叩く。カーテン、絨毯、木の家具――次々と炎に呑まれ、部屋は瞬く間に火の海へ変わった。
生きたい。
その本能が、すべてを押しのけた。
御堂結奈はよろめきながら扉へ向かう。だが、弱った身体は言うことをきかない。
「お姉ちゃん……お願い、引っぱって……」
風見雪音が手を伸ばす。顔には恐怖の涙。
御堂結奈は一瞥だけくれて、無視した。自分が出ることだけを考える。
――その横をすり抜けようとした瞬間。
風見雪音の目に、刃のような光が走った。
彼女はもう片方の手を伸ばし、御堂結奈の足首をがっちり掴む。
「……っ!」
不意を突かれ、御堂結奈は引き倒されるようによろけ、床へ叩きつけられた。
その真上から、燃える木の装飾材がばさりと落ちる。火の粉を散らしながら、御堂結奈の背中へ直撃した。
「ぎゃああああっ!」
肉が焼ける痛みが、悲鳴となって裂けた。
風見雪音は掴んでいた手を離し、自分は必死の形相で扉の外へ這い出る。さらに、怯えた声で叫んだ。
「助けて! 早く来て! お姉ちゃんが中に! 火事――!」
どたどたと駆ける足音、怒鳴り声、消火器の噴射音が、遠くから一気に押し寄せる。
御堂結奈は起き上がろうとした。だが背中の火傷と吸い込んだ煙で視界が揺れ、力が抜けていく。
意識が沈む直前、見えた。
御堂斗真が風のように飛び込んできて、焦った目で部屋を探し――そして視線を、扉の外で震え泣く風見雪音へ固定した。
彼は彼女のもとへ駆け寄り、そっと横抱きにする。声は今までにないほど乱れていた。
「雪音! 大丈夫か! どこをやった?!」
「斗真……私、平気……お姉ちゃんが……お姉ちゃんが……」
風見雪音は彼の腕の中でか細く指をさす。火の海を。
御堂斗真はそこで初めて、床に倒れる御堂結奈へ目を向けた。眉をきつく寄せ、駆けつけたボディーガードへ怒鳴る。
「何してる! さっさと引きずり出せ!」
それだけ言うと、彼は風見雪音を抱いたまま、振り返りもしないで足早に去った。医師のもとへ。
御堂結奈が次に目を覚ましたのは、屋敷の地下医務室だった。
背中がじりじりと焼け、息をするたび喉の奥が熱い。
重い瞼をどうにか持ち上げると、御堂斗真と風見雪音がいた。
風見雪音は車椅子に座り、ふくらはぎに包帯を巻き、頬には涙の跡。いかにも可哀想な顔を作っている。御堂斗真はその横に立ち、病床の御堂結奈を陰鬱な目で見下ろしていた。
「医師。雪音の背中の火傷は、あとで見た目に響くか?」
御堂斗真が低く問う。
主治医は言い淀む。
「風見さんの背部は範囲こそ広くありませんが、深さがあります。治っても、目立つ瘢痕や色素沈着が残る可能性が……」
風見雪音はそれを聞いた途端、涙をぽろぽろ落とし、しゃくり上げた。
「これから……背中の開いたドレス、着られなくなるの……斗真、怖い……」
御堂斗真は胸を痛めたように、彼女の手の甲を軽く叩く。すぐに医師へ視線を戻し、冷え切った声で命じた。
「植皮だ。いちばんいい皮膚でやれ」
医師は頷く。
「適合する皮膚が必要になります。なるべく一致率の高い提供部位を――」
「こいつのを使え」
御堂斗真は病床の御堂結奈を指さした。声は平坦で、揺れがない。
「血液型は合っている。皮膚も合うだろう。ちょうど背中の火傷も処置が要る。無傷の皮膚を取って、雪音に回せ」
