第8章 彼女を救い生かす
御堂結奈の心臓は、氷みたいに冷たい手でぐいと握り潰されたかのように、いっそ止まってしまった。
――自分の皮膚で、風見雪音の背中を補えって?
医師は言葉を失った。
「御堂さん、それは……御堂奥様ご自身も火傷を負っておられますし、状態もかなり悪い。広範囲の採皮はリスクが高すぎます。最悪――」
「死ななきゃいい」御堂斗真が遮った。冷え切った視線が、蒼白な御堂結奈の顔をなぞる。「それだけの代償だ。こいつがいなけりゃ、雪音が怪我することもなかった」
風見雪音が御堂斗真の袖をそっと引いた。
「斗真、やめて……お姉ちゃん、かわいそう……」
「雪音、情けをかけるな」御堂斗真は迷いなく言い切る。「お前はこいつに殺されかけた。この程度、軽すぎる」
手術の段取りは、あっという間に決まった。
御堂結奈は手術室へ運ばれる。全身麻酔が意識を奪う直前、医師と看護師のひそひそ声が耳に刺さった。
「どこから取ります?」
「御堂さんの指示よ。内腿が一番きめが細かいから、風見さんへの移植に向いてる。両側の内腿から全層で。面積は背部の創面を覆えるだけ」
「でも、この人の背中にも火傷の創が……植皮が必要じゃ――」
「御堂さんは『本人のほうは豚皮か人工皮膚でも貼っとけ。生きてりゃいい』って」
麻酔が回り、闇が結奈を飲み込んだ。
目を覚ましたとき、背中と脚から、骨まで裂くような激痛が同時に押し寄せた。
なかでも内腿が灼けるように痛い。熱く、刺すように、じわじわと。冷や汗が噴き出し、意識がまた遠のきそうになる。
必死に視線を落とすと、両脚は厚いガーゼでぐるぐるに巻かれ、そこから血と黄ばんだ滲出液がじっとりと染み出していた。
背中の火傷も処置はされていたが、包帯は雑で、乱暴だった。
「感染してるな」医師が眉間に皺を寄せ、傍の看護師へ言う。「創面の汚染がひどい。患者は極度に衰弱して免疫も落ちてる。最上位の抗生剤を。抑え込めるかどうか……」
傷は崩れ、膿が流れ、腐ったような臭いが部屋にこもる。
高熱で意識は白く溶けた。覚めたと思えば失い、叫びそうになっては沈む。その繰り返し。
「だめだ、敗血症性ショック。多臓器不全が始まってる。本人の生きる意志も薄い。このままだと――」
「生かせ」
冷たく、聞き覚えのある声。御堂斗真だった。
「御堂さん、しかし――」
「生かせと言った」上に立つ者の、いつもの氷の声音。それから彼はベッド脇まで来て、身を屈め、御堂結奈の耳元へ、彼女にしか届かない声量で、ゆっくり区切って言った。
「御堂結奈、よく聞け。お前の母親は狂ってるが、まだ江島家の療養所にいる」
結奈の睫毛が、びくりと震えた。
「お前が死んだら、今すぐ薬を止めさせる。治療も打ち切りだ」御堂斗真の声は淡々としていた。だからこそ、刃より残酷だった。「正気に戻した状態で痛みを味わわせて、最後は野良犬みたいに、あの汚い病室で死なせる」
結奈の呼吸が、急に乱れた。固く閉じた目尻から、濁った涙が一滴、滑り落ちる。
「死なせたくないなら、生きろ」御堂斗真は身を起こし、医師へ冷たく命じた。「最高の薬を使え。金はいくらでも出す。生かしておけ」
医師たちが、慌ただしく動き出す。
強心剤。最上級の抗生剤。栄養管理。血液浄化。使える手段は、すべて。
御堂結奈の身体は、穴の開いた古いふいごみたいに、薬で無理やり空気を送り込まれながら、かろうじて微かな火種を保っていた。
死ねない。
母さんが……まだ、あいつらの手の中にいる。
半ば狂って、それでも、彼女にほんの少しだけ温もりをくれた女。
その温もりさえ、蜜に混ぜた砒素みたいだったとしても。
彼女は母親だ。この冷たい世界で、最後に自分と繋がる、か細い縁。
憎しみは最悪の毒であり、同時に、最強の強心剤でもあった。
薬の強制介入と、命を燃やす憎悪に支えられて、感染は奇跡のように制御され、高熱も少しずつ引いていく。
相変わらず風前の灯で、触れれば折れそうなくらい脆い。それでも――生は、繋ぎ止められた。
御堂斗真は医務室の観察窓の外に立ち、管だらけで、骨ばかりに痩せた女を見下ろしていた。表情は読み取れない。複雑で、どこか苛立っているようでもあった。
なぜ医師に「もたないかもしれません」と言われた瞬間、胸の奥がすとんと空になったのか。
なぜ、あんな卑劣な脅しで、生きろと縛りつけたのか。
理由は分からない。
ただ一つだけ確かなのは――死なせたくない、という事実だった。
少なくとも……今は。
御堂結奈は、昏い波の隙間で、ようやく目を開けた。
日々の処置を担当する医師、前川俊輔が入ってくる。手には薬箱。さらに、丁寧に包まれた白い百合の小さな花束まであった。
前川は花を床頭台に置き、何事もない顔でガーゼを替え始める。
「江島さん、実はずっと前から君に目をつけてたんだ。ここで君がどれだけ辛い目に遭ってるかも、知ってる」前川俊輔は甘い声を作った。「僕なら助けてあげられる」
そして、ベッド脇に置かれた結奈の手を握ろうとする。
「僕のものになれば、ちゃんと面倒を見るよ」
御堂結奈は、反射的に手を引いた。動きが傷を引き攣らせ、眉間がきゅっと寄る。
前川の手が宙で止まり、顔色が露骨に歪む。
「クズが。何が清廉ぶってんだよ。俺以外に、今さらお前を欲しがる奴がいると思ってんのか」
御堂結奈は彼を見て、薄く嗤った。
「前川さん。風見雪音にいくら積まれたの? その芝居、台本付き?」
その一言で前川俊輔の癇に障った。布団を乱暴にめくり、結奈の傷口へ容赦なく手を押しつける。
「誰が雪音を侮辱していいって言った!」
神経を焼く痛みが、結奈の喉を潰し、呻きが漏れた。
そのとき――病室の扉が、どんっと荒々しく開いた。
御堂斗真の大きな影が、入口に立っている。顔は、雨雲みたいに沈みきっていた。
「何をしている」
前川俊輔はびくりと震え、即座に床へ膝をついて頭を下げる。
「申し訳ありません、御堂さん! 全部、俺が悪いんです! どうか奥様を責めないでください! 彼女は……寂しくて、俺に少し、解消を――」
御堂斗真の目が、さらに冷えた。
そして御堂結奈を、じっと見据える。皮膚の下まで剥がして骨を数えるような視線。
御堂結奈はその視線を受け止めたまま、表情を動かさない。説明する気も、起きない。
御堂斗真がゆっくりとベッド脇へ歩み寄り、見下ろす。
「今の話、本当か」
御堂結奈は口の端を引いた。
「わざわざ私に聞く意味、あるの?」
その瞬間、御堂斗真の押し殺していた怒りが、音を立てて燃え上がった。
彼は、脇の医療用トレイに置かれた未開封の高濃度消毒用アルコールを、乱暴に掴み取る。
「だめです、御堂さん! やめてください! 奥様はまだ傷が――!」前川俊輔が悲鳴を上げ、反射的に飛びついて止めようとする。「俺が悪いんです! 俺を罰してください! 彼女に手を出さないで――!」
その必死の庇い立ては、御堂斗真にとっては、二人の関係を認める証拠でしかなかった。
御堂斗真の目が鋭く細まり、前川俊輔を一蹴りで弾き飛ばす。
そして――キャップを捻り開け、身動きできない御堂結奈へ、容赦なく頭から浴びせた。
