第9章 お前みたいな悪人を叩き殺す
「あ゛あ゛――っ!」
高濃度のアルコールが一瞬で薄い病衣に染み込み、背中から太腿へ――まだ塞がりきっていない傷口の上を、容赦なく流れ落ちていく。
焼けた鋼の針を何千本も同時に突き立てられるみたいだった。あるいは、ぐつぐつ煮えた油に叩き込まれたかのように。
言葉にならない激痛が、御堂結奈の神経を根こそぎ攫った。
喉が勝手にひきつり、悲鳴は裏返って、身体はびくんびくんと痙攣する。アルコールに炙られた傷が、じゅう、と皮膚の奥で音を立てるような錯覚さえした。
「汚い」
御堂斗真は、痛みにのたうつ結奈を見下ろしながら、眉ひとつ動かさなかった。そこにあるのは憐れみではなく、冷え切った嫌悪だけ。
「やっぱりお前は、骨の髄まで誰にでも股を開くクズだな。病院のベッドの上でも男を誘うのか」
彼は空になった酒瓶を床へ放り投げ、物音に駆けつけたボディーガードと医療スタッフへ、氷みたいな声で命じる。
「あいつを――」
指先が示したのは、床にへたり込んだ前川俊輔だった。
「外へ放り出せ。業界にも通せ。こいつを使うやつは、俺とやり合う気があるってことだ」
「承知しました!」
前川俊輔は死んだ犬みたいに引きずられていく。泣き叫ぶ声も、廊下の奥へ消えていった。
御堂斗真は最後に一度だけ、痛みで意識が飛びかけ、震えが止まらない御堂結奈へ視線を落とす。複雑なものが一瞬だけ揺れた――だが、次の瞬間には、さらに深い冷えがそれを覆い隠した。
「傷の処置をしろ」
怯えきった医師にそれだけ言い捨てると、踵を返して大股で出ていく。
本館書斎。
風見雪音が、安神茶をそっと差し出した。陰鬱な顔色を窺いながら、柔らかな声で宥める。
「斗真、もう……怒らないで」
御堂斗真は答えず、苛立ったようにネクタイを緩めた。
雪音は彼の表情を読み、慎重に言葉を選ぶ。
「……ねえ。お姉ちゃんが欲に負けてしまうなら、いっそ離婚したらどう? お金を渡して、好きに生きてもらえば……」
「離婚?」
御堂斗真が鋭く目を上げた。
「それで、俺の金を握って他の男とよろしくやれって? 雪音、お前は優しすぎる」
雪音の胸がひゅっと縮む。
「違うの……そんな意味じゃ……。ただ、斗真が、お姉ちゃんのことで身体を壊すのが嫌で……」
「俺は離婚しない」
御堂斗真は、切っ先みたいに言い切った。声には偏執じみた冷たさが滲む。
「お前にしたことも、御堂家にしたことも――まだ返してない。解放? そんな都合のいい話があるか」
一拍おいて、さらに突き刺すように続けた。
「こいつは一生、御堂家から出られない。俺の支配からもな」
風見雪音は伏せた睫毛の奥に、嫉妬と毒をひっそり隠した。
――まだ手放さないの?
御堂結奈がどれだけ汚名を着せられ、傷だらけで、醜い化け物みたいになっても。
なら、もっと徹底的に壊すしかない。斗真の中に残るものを、嫌悪と唾棄だけにするまで。
数日後。
風見雪音は上機嫌で医務室へ顔を出した。
「お姉ちゃん、いい知らせよ」
甘い笑みのまま、さらりと言う。
「伯母さんを屋敷にお招きしたの。お姉ちゃんが具合悪いって聞いて、すごく心配してたわ」
御堂結奈の身体が、びしりと固まった。
母――半ば壊れて、記憶も現実も曖昧なままの、あの人。
「……なにをする気?」結奈の声は乾いていた。
「なにもしないわ」
雪音は無邪気に瞬きをする。
「ただ会わせてあげたいの。母娘の再会だもの。安心して、伯母さんのことは私がちゃんと面倒を見るから」
胸の奥で、嫌な予感が黒く膨らむ。
午後。
江島千代が屋敷へ連れてこられた。
風見雪音は親しげにその腕へ絡みつき、温かく整えられた応接室へ案内する。
御堂結奈も、使用人に車椅子を押されて入ってきた。首元まで隠れるハイネックの長袖ワンピース。喉や腕の傷をなんとか覆い、顔には粉をはたいて病色を誤魔化している。
「……お母さん」
結奈が呼ぶと、喉が詰まった。
千代はしばらくぼんやりと結奈を見つめ、やがて焦点が合う。手を伸ばした。
「結奈……? 私の結奈なの……?」
「そうだよ。私だよ」
結奈は冷たい指を握り、泣きそうになるのを押し殺して笑った。
「大丈夫。元気だから……心配しないで」
風見雪音はその様子を眺め、口元だけで薄く笑う。
彼女は茶菓子を運び、明るく勧めた。
「伯母さん、お茶をどうぞ。伯母さんが好きな玉露です」
千代は言われるまま口をつける。
続けて雪音はアルバムを取り出し、結奈の少女時代の写真を指さした。
「見て。お姉ちゃん、昔はこんなに綺麗だったのに……今は……」
わざと途中で止め、ため息を落とす。
「全部、悪い男たちのせいよね。ひどい話」
千代の視線が写真から現実の結奈へ移り、瞳がゆらゆら揺れた。
「悪い男……結奈を……いじめた……?」ぽつりと呟く。
「そう」
雪音は身を寄せ、囁き声に甘い誘導を混ぜた。
「殴って、罵って、閉じ込めて……。お姉ちゃん、身体中が傷だらけで……かわいそうでしょ」
「……だめ……結奈をいじめるの、だめ……!」
千代が突然立ち上がった。目つきが狂気に染まっていく。
「伯母さん、落ち着いて――」雪音が慌てたふりで手を伸ばす。
「結奈が傷ついた!」
千代は弾かれたように車椅子へ飛びついた。
「誰!? 誰が私の娘を傷つけたの!? 殺してやる! 殺して――!」
「お母さん、違う! 落ち着いて!」
結奈は逃げようとしたが、車椅子が身動きを奪う。
次の瞬間、千代の手が結奈の髪を掴んだ。
ばしっ、ばしっ。平手が落ちる。拳が落ちる。爪が引っ掻く。
痛みより、恐怖が先に来た。
「やめて!」結奈は顔を庇い、泣き声で叫ぶ。「私だよ! 結奈だよ!」
だが千代は聞こえない。
「結奈をいじめる悪い人! 叩き殺す! 叩き殺す!」
風見雪音が甲高く騒ぐ。
「伯母さん! やめて! それ、お姉ちゃんです!」
彼女は止めに入るふりをしながら、混乱の中で千代の腕に押され――わざとらしくよろけた。
そして後腰が、鋭いテーブルの角へ、ぐさり。
「あっ……!」
雪音が床へ崩れ落ちた。顔色が一気に青ざめ、額に冷汗が浮く。
「雪音!」
雷鳴みたいな声。
いつの間にか入口に立っていた御堂斗真が、その光景を見た瞬間、目を赤く吊り上げた。
彼は駆け寄り、江島千代を乱暴に突き飛ばす。
虚弱な身体は床へ投げ出され、そのまま動かなくなった。
御堂斗真は御堂結奈を一瞥もしない。風見雪音を抱き上げ、後腰に広がっていく血を見て、声を震わせた。
「雪音! どこをやった!? 医師! 来い、今すぐ!」
「斗真……私は……平気……」
雪音は彼の胸に縋り、涙を滲ませる。
「伯母さんを責めないで……。病気なの……。お姉ちゃんだって、わざとじゃ……」
その言葉が優しければ優しいほど、御堂斗真の怒りは増幅していく。
彼は雪音を抱いたまま、氷の刃みたいな視線を御堂結奈へ叩きつけた。
「結奈、お前は災厄だ。自分の狂った母親ひとり制御できないくせに、雪音まで傷つける気か!」
結奈の頬は熱く、身体には血の滲む掻き傷がいくつも走っていた。言い返す言葉を探す前に、御堂斗真の冷たい宣告が落ちる。
「今日から、あいつに二度と会うな」
