第2章

沈村深はやましいのか、安田歌子の視線からするりと逃げた。

「お……俺、わざとじゃない! 相手が人さらいだなんて知らなかったんだ。あいつが『お前のこと可愛いって言ってた、遊びに連れていきたい』って……だから俺も、いいって言っちゃって……!」

沈村川人も続けて口を挟む。

「次男は当時まだ子どもだった。多少の失敗なんて誰にでもあるだろ。そこまでしつこく責めなくてもいいじゃないか」

安田歌子は――この一家の厚かましさを、完全に見誤っていた。

「お姉さん」

二階から、白いネグリジェ姿の沈村遥がゆっくりと降りてくる。伏し目がちで、いかにも気の毒そうな顔。

「出ていくべきなのは、あなたじゃない。私です」

「遥ちゃん!」

遥の姿が見えた瞬間、兄たちは一斉に駆け寄った。

沈村川人は痛ましそうに眉を寄せる。

「具合が悪いって言ってただろ。部屋で休んでろよ。ここは俺たちがいる」

沈村深も心配そうに覗き込む。

「部屋に持っていったご飯、食べた? 口に合った?」

兄たちに支えられ、沈村遥はふわふわとした足取りで階段を降りきった。

「川人お兄さん、深お兄さん……私は大丈夫です」

そして安田歌子の前に立つと、申し訳なさそうに頭を下げる。

「全部、私が悪いんです。お姉さんのあの歌が好きだって言ったから……それで、兄さんたちが私のために動いてくれて」

遥は鼻をすん、と鳴らした。次の瞬間、目元がみるみる赤くなる。

「お姉さんがこんなに怒るなんて思わなかった……あの歌、もういりません。もしこの家から誰かひとり出ていかなきゃいけないなら……それは、私です」

大人ぶった言葉と、楚々とした泣き顔。それだけで空気は簡単に傾き、安田歌子への不満がいっそう濃くなる。

「遥ちゃんを見なさい。あなたも少しは見習ったらどうなの」

沈村母は失望した目で安田歌子を睨んだ。

「いつになったら、あの子みたいに聞き分けよくなるの?」

「聞き分けがいい?」

安田歌子は鼻で笑った。

「頭が空っぽなあんたたちだけだよ、あれを『いい子』だと思ってるのは。可哀想なふりして利用するのが得意なだけ。利用されてるくせに、嬉々として尻尾振ってる。救いようがないくらいバカ」

その一言で、リビングが凍りついた。

全員が固まる。

――これが、本当に安田歌子の口から出た言葉なのか。

今までなら、彼らが言う通りに動いたはずなのに。

今日はどうした?

たかが一曲で、嫉妬して狂ったのか。

「お姉さん……」

沈村遥も、今日の安田歌子の大胆さは予想外だった。だが、好都合でもある。自分の優しさと健気さがより際立つ。

「お父さんやお母さん、兄さんたちを責めないで……全部、私のせいです。私を責めて。叩いても、怒鳴っても……私、受け止めますから……」

「叩く」「怒鳴る」という言葉が出た途端、遥を囲む男たちの身体が一斉に強張った。いつでも守れるように、と。

安田歌子は滑稽で仕方なかった。

そこまで警戒する必要がある?

二年も一緒に暮らせば、犬だって情が移る。まして同じ血の繋がった家族のはずだ。

なのに沈村家の人間は、彼女が心臓ごと差し出しても、欠片ほどの優しさすら返してくれなかった。

もう疲れた。

これ以上、感情を無駄遣いする気はない。

安田歌子は踵を返し、そのまま出ていこうとする。

玄関を跨ごうとした、その時。

沈村母の顔に、みっともない焦りが滲んだ。支配していたはずのものが手から滑り落ちる感覚が、ひどく不快だったのだ。

「安田歌子! よく考えなさい! 出ていったら二度と戻れないわよ! これから沈村家に、あなたの居場所はない! 娘とも思わない!」

安田歌子がぴたりと足を止めたのを見て、沈村母は内心ほっとした。

――ほら、やっぱり大した度胸なんてない。

注目を集めたいだけ。遥ちゃんと愛情を奪い合いたいだけ。

こんな手に乗ってはいけない。あとでちゃんと謝らせないと。謝らなければ、絶対に許さない。

「……ぱち、ぱち、ぱち」

安田歌子が、突然拍手をした。

沈村母が呆気に取られる中、安田歌子が口を開く。

「今の言葉、忘れないで。今日から私と沈村家は――一切、無関係」

沈村母は怒りで足元がぐらつき、倒れそうになった。

沈村深は、安田歌子がまったく折れないのを見るや、数歩詰め寄り、氷みたいな声で告げた。

「出ていくのは勝手だ。でも新曲は置いていけ」

安田歌子は振り向き、真顔の沈村深を見て、喉元まで出かかった罵りを飲み込んだ。

「頭、大丈夫? 私の曲を、なんであの子に渡さなきゃいけないの」

「お前を連れ戻してからの二年、衣食住だって会社のリソースだって、全部タダじゃない。縁を切るなら精算は必要だろ。新曲を置いていけ。借金の代わりだ」

沈村深が本当に金を取り立てたいわけではないのは、安田歌子にもわかった。

――この方法で、引き留めたいだけ。

作曲の才能は業界でも飛び抜けている。二年間マネージャーとして傍にいた沈村深は、彼女の懐事情も把握している。

本気で精算になれば、安田歌子に払えるはずがない。

「精算したいなら、してあげる」

安田歌子は落ち着き払って沈村深を見据えた。

「この数年で、沈村遥が持っていった私の曲は全部で十曲。契約は一度も交わしてない。弁護士を立てて訴えれば、収益の五〇%は私の取り分になる」

スマホを取り出し、音楽アプリのランキングを開く。

「そのうち三曲は一年連続で一位。五曲は大ヒット扱い。しかも一曲ごとに再生数は100万超え。沈村マネージャー、この数字で……あなたの可愛い妹が私にいくら払うことになるか、わかってるよね?」

沈村深の身体が強張る。ここまで突きつけられるとは思っていなかったのだ。

沈村深が言葉に詰まると、安田歌子が代わりに答える。

「私が沈村家で使ったのは、食事と部屋だけ。他は一切、もらってない。曲の収益だけで、この家だって買える。計算すべきなのは――私が払う金じゃなくて、あんたたちが払う金」

今まで数えたくなかったのは、沈村家とこれ以上絡みたくなかったからだ。

時間も気力も無駄になる。

だが沈村深が先に金の話を出した以上、きっちり清算してやる。

沈村深は顔を青黒くし、吐き捨てる。

「遥ちゃんはお前の妹だろ! 妹に何曲か書いてやって何が悪い! そこまで金にするのか? 人間かよ!」

「じゃあ、あんたは人間なの?」

安田歌子は沈村深を、ゴミを見るみたいな目で見た。

「金の話を始めたのはそっちでしょ。都合悪くなると忘れるの? それとも――自分が人を踏みにじるのはいいけど、反抗されるのは許せない?」

「安田歌子!」

沈村深は怒りで声を震わせる。

「言うことを聞かないなら、沈村家が潰してやる! 業界にお前を使うなって流す。そうしたらお前は何の仕事も取れない。芸能界から完全に消えるしかなくなるぞ!」

「好きにすれば」

安田歌子は肩をすくめた。

「どうせこの二年、まともな案件なんて持ってきてないじゃん」

言い捨てて、背を向ける。

背後で誰が何を叫んでも、足は止めなかった。

「反抗期にもほどがあるわ……!」

沈村母はソファに沈み込み、胸を上下させた。

沈村川人が背中を撫でる。

「母さん、心配いらない。あいつはコネも人脈もない。外で長くはもたないよ。数日したら大人しく戻ってきて、俺たちに許してくれって泣きつくさ」

沈村深も頷いた。

「戻ってきたら、甘やかすな。きっちり罰を与えて、思い知らせてやる」

安田歌子は沈村家を出たあと、都心の小さな部屋へ戻った。

以前、こつこつ貯めた金で買った場所だ。広くはない。けれど、ここには温かい時間が確かにあった。

沈村家を離れた途端、身体がふっと軽くなる。

人の目を気にしなくていい。嫌われないかと怯え続けなくていい。

高熱でふらふらでも、酒臭い兄の肩を揉まされることもない。

これからは――自分が楽しいかどうか、それだけでいい。

安田歌子はソファに寝転び、息をついた。

その時、スマホがぶるぶると震える。視界の端に、画面で跳ねる名前が見えた。

陸原吉弘。

安田歌子の唇が、嘲るようにわずかに弧を描く。

十年以上、愛した男だ。

沈村家に引き取られる前から付き合っていた。彼こそ自分を一番理解してくれる人だと信じていた。

一緒に学校へ行き、料理をし、広い海辺で一晩中星を眺めた。

――前世。死ぬ直前のあの瞬間。

婚約者だった陸原吉弘が、別の女へ駆け寄るのを、彼女ははっきりと見た。

生き直せるのなら、もう同じ過ちは繰り返さない。

安田歌子は通話ボタンを押す。瞳は凪いだまま。

「……もしもし」

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