003.ここ、私の
それを聞いて、石原聡美は石原絵梨花を見やり、宥めるように言った。
「絵梨花。どこに住んだって同じよ。夕飯までに鈴木さんと三山さんが部屋を整えるから。一階の方が何かと便利だし」
石原絵梨花はふっと笑った。けれど、その笑みは瞳まで届かない。
「……一階?」
石原聡美と石原七緒が揃って頷く。石原七緒は柔らかく笑って、甘えるように言った。
「お姉ちゃん、昔から私に優しかったもん。怒らないよね」
石原絵梨花は、階段を上りかけた足を止めた。くるりと踵を返し、今度は下へ向かう。
石原聡美はほっと息をつき、慌てて言い添えた。
「安心して。ちゃんと用意するわ。絶対にあなたに嫌な思いはさせない」
石原七緒も、いかにも従順に石原絵梨花の隣を歩く。
二人はソファの前へ戻った――はずだった。
石原絵梨花は止まらず、そのまま玄関へ向かった。
石原七緒が目を丸くする。
「お姉ちゃん、どこ行くの?」
石原絵梨花は気だるげに言い捨てた。
「部屋がないなら、手間はかけない」
言い終えると、石原聡美と石原七緒を一瞥し、そのまま外へ出た。
たった一瞬の視線だったのに、そこに確かな冷えを見た気がして、二人は思わず立ち尽くす。
我に返った時には、石原絵梨花の姿はもうなかった。
鈴木さんと三山さんは、石原聡美が指定した部屋の前で呆然としている。
――なんだか、この絵梨花様……ちょっと普通じゃない。
「まずい……!」
石原聡美は顔色を変え、慌てて追いかけた。だが外へ出ても何も見えない。影すらない。胸の奥がざわつく。
石原七緒も出てきて、気遣うように言った。
「お母さん……私が、お姉ちゃんを怒らせたのかも。私が探しに行こうか?」
「いい!」
石原聡美は苛立たしげに手を振った。歯を噛みしめるほど腹が立つ。
――何年経っても、石原絵梨花は私にいい顔ひとつしない。
子どもの頃から可愛げがなくて、成長したらもっと可愛げがない。
石原聡美は毒づくように呟いた。
「外で死んでくれれば……」
石原七緒が聞き返す。
「え? お母さん、何?」
「何でもない。戻るわ」
石原七緒はまだ気にしている。
「でも、お姉ちゃん……」
「放っておきなさい。お父さんが帰ってからよ」
石原聡美は冷たく言った。
……
その頃、石原絵梨花は石原家の別荘の外にいた。
石原聡美と石原七緒が何か言い合い、結局家に戻っていくのを無表情で見届けると、踵を返して歩き出す。
歩きながらスマホを取り出し、電話をかけた。
数回の呼び出しの後、すぐに繋がる。からかうような男の声。
『おや。親に会いに帰ったんじゃなかったのか? まだ俺に電話する余裕があるとは』
「陽城での拠点、どこ」
『ほらな。居られないと思った』
石原絵梨花は眉をひそめる。苛立ちが湧き、殴りたくなる。
だが相手も彼女の性格を知っているのだろう、すぐにふざけた調子を引っ込めた。
『水園31号だ』
石原絵梨花は足を止め、さっき通り過ぎた表札を思い出して振り返る。
そこには確かに、水園18号。
目尻がぴくりと動いた。妙に納得してしまう自分が腹立たしい。
「他は」
『俺の状況分かってんのか? 陽城なんて初めてだし、こっちの人間もいねえ。拠点一つ用意できただけでも上出来だろ。でないと西村雅哉がまた俺を追い回す!』
「……ふうん」
電話の相手はアリス。三国の血を引くハーフで、国境を渡り歩き、各国に不動産を持つ――と、表向きは言える。
ただし、国際的な最重要テロリストという厄介な肩書きを無視できれば、の話だ。
最近、国際組織のトップである西村雅哉に目をつけられ、しばらく逃げ回っている。
西村雅哉が大金を積んでハッカー同盟のトップクラスを雇い、アリスの行方を洗い出したせいで、彼はあっけなく炙り出され、みっともなく逃げる羽目になった。
最後には石原絵梨花に助けを求めた。そうでもしなければ、今頃アフリカのどこかの片隅で、西村雅哉の写真に悪態をつきながら、部下と合流する方法を悩んでいたはずだ。
アリスを庇ったせいで、石原絵梨花の痕跡も見つかった。
彼女は出先で事件に巻き込まれ、面倒を避けた結果、陽城の警察に芋づる式に辿られた。
しかも警察は先に石原家へ連絡を入れていた。
石原絵梨花が裏で揉み消す余地など、最初から与えない。
仕方なく石原絵梨花は「ヤンキー」役を演じ、迎えに来るのを待つことになった。
アリスは負い目があるから、石原絵梨花が陽城へ戻ると知った瞬間、住まいを用意させた。
静かで、環境が良く、邪魔が入らない場所――石原絵梨花がいつも求める条件どおりに。
案の定、石原絵梨花はあの家に居続けられなかった。
石原絵梨花は電話を切り、踵を返してゆっくり戻る。
石原家の前を通ると、門はまだ開いたまま――誰かが出入りしたらしい。
そのまま表札を辿り、アリスの別荘へ。
門は閉まっている。石原絵梨花はスマートロックを見つめ、少し考え込んだ。
――アリスは暗証番号を言っていない。
この手のロックは、あいつが普段使っている独自のネットワークに繋がっている可能性が高い。侵入して解除すれば、向こうに気づかれる。
石原絵梨花はスマホを取り出し、イヤホンをオンにした。
接続しようとした、その時。
背後から、低く艶のある男の声が響いた。
「失礼。うちの家の前で、何をしている?」
石原絵梨花の手が止まる。振り返ると、そこには背の高い若い男が立っていた。距離は半メートルもない。
黒い綿のシャツ。太陽や月、星をあしらった刺繍が施され、銀糸の縁取りが入っている。
白い首筋の下、釦は数個外され、鎖骨がちらりと覗く。袖は捲られ、引き締まった前腕が露わだ。
右手には、本が二冊。古書のように見える。
細長い目がわずかに細められ、笑っているようで、その実、笑ってはいない。唇の端が上がり、どこか危うさと荒々しさを感じさせる美貌が際立つ。
夕暮れの淡い光が目元を照らし、風のように涼やかな佇まいで――息を呑むほどだった。
石原絵梨花は門の脇に掲げられた住所表示を確かめる。31号。
眉を寄せ、門を指さした。
「ここ。私の」
男の笑みが深くなる。口調だけは礼儀正しい。
「お嬢さん、もう一度確認した方がいい」
石原絵梨花は苛立ち、開けて入るつもりでロックに手を伸ばす。
だが男が先に彼女を追い越し、門の前へ。
ゆったりとした動きで数字を入力する。
カチリ。
門が開いた。
石原絵梨花の動きが止まる。
男は振り返り、眉を上げた。『どうだ?』と言わんばかりに。
石原絵梨花は珍しく黙った。
そこへ、スマホがけたたましく鳴る。
石原絵梨花は眉間を押さえ、通話に出た。
『悪い。今、部下から聞いた。用意したのは32号だった。31じゃねえ。間違えるなよ』
そして思い出したように付け足す。
『暗証番号は1が六つ。セキュリティに侵入して開けるなよ。専用のネットワークに繋がってんだ』
石原絵梨花は無言。
隣の別荘を見て、次に、からかうように見ている男を見る。
石原絵梨花は無表情で言った。
「ちゃんと隠れて」
『は? なんでだよ』
問い返される前に、石原絵梨花は通話を切った。
この時のアリスはまだ知らない。
国際組織の西村雅哉が近いうち、石原絵梨花からの「親切な手がかり」を受け取ることになるなど。
通話を終えると、男がゆっくり言った。
「お嬢さん。確認、できた?」
石原絵梨花は平然と頷き、隣の別荘へ向かった。
スマートロックを開け、入るなり――ドン、と勢いよく扉を蹴り閉める。音がやけに大きい。
男は低く笑った。
すぐに、同年代の青年が駆け寄ってくる。
「松岡様、どうしたんです? 門開けたのに入らないで。風に当たってるんですか」
男は少し考え、言葉を選んだ末に言った。
「さっき、誰かが……」
喉元で転がした末、ようやく出てきた言い回し。
「――ピッキングをな」
「は!? 誰が松岡様の家の鍵を!? 正気かよ!」
青年は呆れを通り越して感嘆する。
「度胸ありすぎだろ……」
男は口元だけで笑い、何も言わなかった。
