004.書斎の写真

もう一方――新山は石原家を出るなり、そのまま石原グループへ戻った。

石原幸雄はというと、まだ34階の会議室で社内会議の真っ最中だった。

会議の前、幸雄は新山に言い含めている。

――よほど重要な用件でない限り、会議を中断するな。

新山は会議室の前で一瞬だけ迷ったが、結局は社長室で待機することにした。

そして会議が終わり、新山を伴って石原家へ戻った頃には――石原絵梨花の姿はもうなかった。

「絵梨花は?」

会議が終わるやいなや急いで戻ってきたのは、ただ一目、娘の顔が見たかったからだ。

石原聡美の表情が、ぴくりと固まる。

石原七緒は母の様子に気づいたのか、素直な声で先に答えた。

「お父さん。お姉ちゃん、出かけたよ」

「出かけた?」幸雄の眉間が跳ねる。

聡美の胸に嫌な予感が走った。慌てて取り繕う。

「ええ、絵梨花が気分転換に散歩したいって……一人で出ていったのよ」

幸雄は眉を寄せる。

「気分転換? どこへ行った」

聡美は言葉に詰まり、苛立ちを滲ませた。

「そんなの知るわけないでしょ? あなた、あの子の性格を分かってるの? 私にどうこうできる? 私どころか、あなたでも無理よ!」

言い終えた瞬間、幸雄のこめかみが脈打った。

黒い眼差しが聡美を射抜き、聡美は思わず首をすくめる。

幸雄は顔立ちも整っている。七緒を見れば、それがよく分かる。

加えて、長年ビジネスの荒波に揉まれてきた威圧感だ。怒らせれば、正面から目を合わせられる者は少ない。

聡美など、なおさらだった。

背景と化していた新山が、無意識に眼鏡を押し上げる。

そして、ちょうどいいタイミングで口を挟んだ。

「石原社長。警察署の記録に絵梨花様の連絡先が残っているはずです。私が確認して参ります」

幸雄は怒りを押し殺し、短く頷いて促した。

新山が去った途端、幸雄の堪えは切れた。

「何度言わせる! この家で絵梨花は俺の娘で、お前の娘だ! 変えられない事実だろう! 少しは心を向けられないのか!」

さらに声を荒げる。

「当時、お前がもう少し絵梨花に目を配っていれば……家の前で消えることはなかった!」

あまりにも刺さる言葉だった。

聡美の顔色が変わり、悔しさに声が震える。

「どうしてそんな言い方するの? 私だって絵梨花を娘だと思ってるわよ! でもあの子は私にどんな態度? 娘が母親に向ける態度じゃない!」

「まだ子どもだ」

「子どもなら何してもいいの? 七緒みたいに少しでも素直で可愛げがあったら、私だってあんなに嫌いにならない!」聡美は吐き捨てるように言った。

「黙れ! 母親が言う言葉か!」

幸雄が怒鳴る。

聡美は反射的に言い返しかけたが、隣の七緒に目をやり、何かを思い出したように口を閉じた。

幸雄はこめかみを押さえ、視線を七緒へ移す。

「七緒。絵梨花が今日出ていった理由、知ってるか」

七緒は何かを察し、唇を結ぶ。

「……本当は、みんな嬉しかったよ。お姉ちゃんが帰ってきて。普通に話してたのに、急にお姉ちゃんが機嫌を悪くして……」

少し間を置いて、続ける。

「たぶん……お父さんに会えなかったのが、寂しかったんじゃないかな」

聡美が鼻を鳴らす。

幸雄は深く息を吐き、苛立たしげに手を振った。

「分かった」

「じゃあ、私、勉強してくるね」七緒はにこやかに微笑んだ。

幼い頃から手がかからず、安心させてくれる娘。

幸雄の表情も、自然と和らぐ。

「行ってこい。しっかり勉強しろ。三高は授業が始まると、どんどん先へ進むらしい。遅れるなよ」

「うん」

七緒は階段を上っていった。

……

幸雄が絵梨花の番号を手に入れ、電話をかけたのは夜10時半。

その頃、絵梨花は別荘の二階の部屋で、深い眠りに落ちていた。

絵梨花を知る者なら誰でも知っている。

彼女には絶対に崩さない習慣がある。

――眠るのは10時まで。

そして、邪魔をしないこと。

何があろうと、睡眠が最優先。

黒い古びたスマホがテーブルに放り出されている。

着信音が鳴るたび、端末がぶるぶると震え、耳障りな音を立てた。

うるさい。

眠りの絵梨花は起きない。ただ眉がわずかに寄る。

しばらく鳴って、止んだ。

絵梨花は眉をほどき、寝返りを打つ。

だが間もなく、また着信音。今度は執拗で、音量まで上がっていくようだった。

ベッドの人影がついに苛立ち、半分眠ったまま手探りで端末を掴む。

そして――投げた。

ガンッ。

壁に当たり、床に落ちる。

着信音が止まった。

二度と鳴らない。

絵梨花は寝返りを打ち、眉目の冷えが濃くなる。

電話の向こう、幸雄は黒く沈んだ画面を見つめ、顔色を落とした。

しばらく睨みつけた後、嫌悪を込めて端末を置き、冷たく前を見据える。

幸雄がいたのは書斎だった。

広い部屋に灯るのは、弱い一灯だけ。

正面の壁、その中央に大きな写真が飾られている。壁を埋め尽くすほどのサイズだった。

写っているのは十歳にも満たない少女。

白いTシャツに、古びてサイズの合わない長ズボン。膝には繕った跡まで残っている。

整った顔立ち。すっきりとした目鼻立ち。

表情は淡く、変化がない。

黒く澄んだ大きな瞳が、撮影者を冷静に見つめている。どこか冷たい。

見ているだけで、胸の奥が締めつけられる。

幸雄はしばらく写真を見つめ、陰った顔のまま立ち上がり、書斎を出た。

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