006.松岡様
高木政宗は半信半疑のまま石原絵梨花の後を追った。彼女がダイニングテーブルのほうへ向かうのを見て、自分もつられるように歩いていく。
石原絵梨花は近くの椅子を無造作に引き、背中側へ引きずって腰を下ろした。眉は冷たく、視線は淡い。長い睫毛だけがふっと落ちる。
高木政宗の目には、この少女の全身から「近寄るな」という圧が滲み出ているように映った。
……ただ、顔がとんでもなく整っている。
女を見慣れている高木政宗ですら、西京市の名門令嬢をいくら見てきたとしても、認めざるを得なかった。綺麗なだけじゃない。癖になる、忘れられない類の美しさだ。
松岡友希が、煮込んだ汁物と、朝から仕込んでいた肉まんを本当にテーブルへ並べた瞬間――高木政宗の表情が、ひび割れた。
……マジか。
高木政宗は信じられないものを見るように松岡友希を見つめた。松岡友希は石原絵梨花と同じように椅子を引き、背中側へすっと寄せて座る。細長い目をわずかに眇め、そのまま彼女の隣へ。
その一瞬、高木政宗の顔が妙に引きつった。
石原絵梨花は湯気と香りを立てる肉まんを一瞥し、わずかに表情を緩める。
遠慮はない。椀を取り、汁を注いで、一口。
……豚汁。
甘みがあり、旨みが深い。濃いのに重くない。手際も味も、確かだ。
石原絵梨花の顔が、さらにわずかに緩む。
高木政宗は息を呑んだ。
松岡爺さんですら、こんなにすんなり松岡様の手料理を口にできたことがあるだろうか。
――松岡友希。西京市の松岡家の人間で、松岡家の三男。
謎なのは、松岡友希個人というより松岡家そのものだ。
松岡家はもともと西京市の名門に数えられていなかった。それが十八年前、突然表舞台に現れ、瞬く間にいくつもの名門を押しのけて上位へ食い込んだ。
その実力も、どこまで影響力があるのかも、計り知れない。
そして松岡友希は、その中でも別格だった。
十五で商売を始め、二年で松岡家の事業を海外へ広げる。十八で海外へ渡り、世界でも指折りの大学で三つの学位を取得。論文も一流の学術誌にいくつも掲載された。二十で軍に入り、数え切れないほどの功績を立てた。
――なのに、その後。理由もわからないまま一年間、突然姿を消した。
戻ってからは、さらに鋭い気配をまとっていたが、松岡家の権力から距離を置き、商売にも政治にも軍にも進まず、一人で陽城へやって来た。理由は誰も知らない。
西京市の人間が知っているのは二つ。
松岡様は滅多に人前に出ないこと。
そして――料理が趣味だということ。
腕は五つ星級。だが食べさせてもらうには、代償が要る。
石原絵梨花は食べ終えると、機嫌が良さそうに目を細めた。とはいえ表情の変化は乏しく、相変わらず淡々としている。
ふと目を上げる。
隣の男が身を乗り出し、肘をついて顎を支え、横顔で彼女を見ていた。艶やかな色気。撫でるような視線。どこか人をからかう温度。
石原絵梨花は一瞬だけ動きを止め、ポケットへ手を入れた。探して、探して――最後に細い銀のチェーンを取り出す。銀色の鎖が光を反射した。
少し迷ってから、テーブルに置く。
「食事代」
高木政宗は言葉を失った。
……払うのかよ。
しかも、それで足りると思ってるのか。
松岡友希は平然と、低く笑っただけだった。
「いい」
石原絵梨花は立ち上がり、そのまま玄関へ向かう。
しばらくして、高木政宗がようやく我に返った。
「なあ、今の子……誰だ?」
松岡友希はちらりと見るだけで、薄い唇をゆっくり動かす。
「隣人」
高木政宗は固まった。
「……は?」
雑すぎないか。
……
石原絵梨花は外へ出ると、そのまま自分の家へ戻ろうとした。
数歩進んだところで、背後から驚いた声が飛ぶ。
「お姉ちゃん? なんでここに?」
石原絵梨花は振り返らず、歩き続ける。
だが相手は諦めない。追いついて腕を掴んだ。
「お姉ちゃん、どうして無視するの? 私たち、一晩中探したんだよ。すごく心配して……」
石原絵梨花は足を止め、振り返る。
案の定、石原七緒だった。楚々とした顔。潤んだ瞳に心配が満ちている。まるで本当に姉を案じているかのように。
石原絵梨花の視線が下がり、掴まれている腕へ落ちる。
黒い瞳が、澄んだ冷えを帯びた。
石原七緒が息を呑む。
気づけば、いつの間にか手を離していた。
石原七緒は唇を噛み、すぐに笑顔を作る。
「お姉ちゃん、一緒に帰ろう。お父さんも家にいるよ。会いたがってた」
石原絵梨花がふっと笑う。
「会いたがってる?」
石原七緒は一瞬だけ詰まり、それから従順に頷いた。
石原絵梨花は数秒見つめ、鼻で笑って彼女を避ける。両手をポケットに突っ込み、だるそうに歩き出した。
「じゃあ、行くか」
その瞬間、石原七緒は自分の記憶と目の前の姉が一致しない錯覚に襲われた。
不良で、どうしようもなくて、話が通じない姉――そんな印象とは別人だ。
だが次に見れば、白いシャツに黒いジーンズ。安っぽく、名門令嬢には見えない。
……結局、やっぱりその程度。
石原七緒はゆっくり笑みを広げ、追いかけた。
「お姉ちゃん、待って」
……
石原家に戻ると、石原幸雄はリビングで沈んだ顔をして座っていた。隣には不満げな石原聡美。
石原絵梨花を見た二人は、一瞬呆ける。
先に反応したのは石原幸雄だった。慌てて立ち上がり、笑顔を作る。
「絵梨花……本当に絵梨花か。どこへ行ってた? お父さんもお母さんも心配で……」
抱きしめようとして、一歩踏み出す。
だが顔を上げた瞬間、石原絵梨花の目が見えた。
薄い靄のようなものが漂い、感情が読めない。冷えたまま。
――怖い。
石原幸雄の足が止まる。
石原七緒が笑いながら言った。
「私、友だちに会いに行く途中でお姉ちゃんを見つけたの。たぶん……昨日も水園から出てなかったんじゃないかな」
「そうか、そうか」石原幸雄は嬉しそうに頷く。「七緒は気が利くな」
石原七緒は大人しく笑った。
石原聡美も無理に柔らかい声を出す。
「帰ってきてくれてよかったわ。鈴木さん、食事の支度を」
奥で鈴木さんたちが慌てて返事をする。
石原幸雄は穏やかに言った。
「絵梨花、昨日のことは聞いた。父さんが悪かった。七緒に部屋を譲らせた。今日中に空けさせる。もう出ていくな。な?」
石原七緒が固まる。
石原絵梨花はソファへ腰を下ろし、俯き気味で表情を見せない。
「……うん」
石原幸雄はぱっと表情を明るくし、石原聡美に片づけるよう命じた。
石原聡美は言い返したそうにしたが、何かを飲み込み、黙って二階へ上がっていった。
石原七緒は本気で動揺する。
「お父さん?」
石原幸雄は手を振った。
「いい。姉と争うな」
石原七緒は深く息を吸った。
昼食の席で、石原幸雄は石原絵梨花に甲斐甲斐しく取り分け、あれこれ世話を焼いた。
途中でふと思い出したように言う。
「絵梨花、新学期が始まったら七緒と一緒に三高へ通うのはどうだ?」
石原七緒の箸が止まった。
俯いたまま、意味の読めない目をしてから、首を上げる。
「三高? お父さん、私が通ってる陽城第三高等学校?」
石原幸雄は頷いた。
石原聡美が不機嫌に言い放つ。
「七緒は小さい頃から努力して、やっと三高に入ったのよ。三高は誰でも入れる学校じゃないわ」
