007.彼女はどこかで絵梨花様に会ったことがあるようだ
石原幸雄の顔色が、見る間に沈んだ。
「……どういう意味だ」
石原聡美は不機嫌そうに言い返す。
「別に何も言ってないわ。ただ事実を言っただけ。七緒がどれだけ頑張ったか、あなたも見てたでしょ。二か月連続で夜更かしして、ようやく三高に受かったのよ」
「じゃあ……あの子は?」
聡美は、ふわりと石原絵梨花へ視線を投げた。
絵梨花は黙ったまま食事を続けている。箸を伸ばし、ナスを少しだけつまんだ。
聡美は続ける。
「この五年、絵梨花がどんな暮らしをしてたか、あなたも分かってるでしょう。山の中にまともな教育環境があるとでも? 学校にどれだけ通えたの。学力は? 教養は?」
「そんな……子が三高に入ったら、石原家の面目に泥を塗るだけよ。七緒にまで影響が出たらどうするの」
そこで、石原七緒が頃合いを見計らったように口を挟む。
「私は大丈夫だよ。お姉ちゃんのほうが大事」
そう言って、素直に俯いた。
その言葉に、幸雄は喉の奥を詰まらせた。
絵梨花が消えていた五年が、どんなものだったのか。
正直、口にするのも難しい。
幸雄は、悟られないように絵梨花を盗み見た。
――本人に直接聞くなんて、できるはずがない。
しかも聡美が「七緒」を持ち出したことで、幸雄の心は揺れる。
陽城では、石原家には“何もかも出来る娘”がいると知られている。気が利いて、礼儀正しく、美しくて、連れて歩けば面子が立つ。
急成長したとはいえ、石原家の伸びしろが頭打ちに近いことを、幸雄自身が一番理解していた。
ここから先へ行くには、新しい「機会」が要る。
そして――その「機会」になり得る娘が、七緒だった。
幸雄は、俯いて食べる絵梨花を見つめた。
絵梨花は終始ほとんど喋らない。なのに、そこにいるだけで無視できない。
食卓の空気が、妙に静まり返る。
三人がそれぞれの思惑を抱える中、絵梨花だけが淡々と食べ続けた。
やがて、絵梨花は箸を置く。
気だるげに目を上げ、三人を一瞥する。その視線だけで、心臓がひゅっと跳ねた。
「いらない。自分で行ける」
七緒がぱっと笑う。首を傾げ、無邪気を装って。
「お姉ちゃん、無理しなくていいよ。私が補習してあげる」
聡美は即座に首を振った。
「補習なんて必要ない。七緒、あなたは自分の勉強が最優先よ」
本音を言えば、絵梨花には体裁のいい私立にでも入ってもらえば十分だ。
なぜわざわざ陽城第三高校にこだわるのか。面倒が増えるだけじゃないか。
聡美は、行儀のいいとは言えない座り方の絵梨花を見て眉をひそめる。
――この子を連れて外へ出て、「娘です」とどう言えばいい?
幸雄は少し考え、ため息をついた。
「……三高にする。七緒が絵梨花を見てくれるなら、俺も安心だ」
「何言ってるの!」聡美が声を荒げる。
「決めた」幸雄は有無を言わせず押し切った。
眇めた目でこちらを見る絵梨花と視線がぶつかる。
深い黒色の瞳。懐かしいのに、どこか遠い。
幸雄は長く息を吐き、箸を置いて席を立った。
幸雄が去ると、聡美は胸の奥の苛立ちが膨れ上がった。
だが絵梨花と目が合うだけで、その怒りは綿に拳を打ち込んだみたいに消えていく。残るのは、詰まるような息苦しさだけ。
聡美は冷たく言った。
「午後、用事があるの。先に出るわ。二人で食べて」
七緒が柔らかく見送る。
「お母さん、気をつけてね。ゆっくりでいいから」
「ええ」
聡美の表情が、七緒に向けた瞬間だけ和らいだ。
食卓に残ったのは、絵梨花と七緒の二人。
七緒は微笑み、もう一度尋ねる。
「お姉ちゃん、補習してあげようか?」
絵梨花はゆっくり立ち上がった。
否定もしない。肯定もしない。
そのまま二階へ向かう。
背後で、七緒の指がぎゅっと握り締められる。
絵梨花の後ろ姿を睨む。長く、真っ直ぐな脚。やけに目を引く。
キッチンで、鈴木が小声で言った。
「なんか……変じゃない?」
三山は答えない。
鈴木が首を傾げ、顔を覗き込む。
「ねえ、聞いてる? 何ぼーっとしてんの」
三山ははっと我に返った。額に汗が滲んでいる。
「……私、どこかで見た気がするの。絵梨花様……」
「見たって?」鈴木が眉を上げる。
三山は返さず、俯いた。
瞳に満ちるのは、迷いと、ぞっとするような恐怖。
――以前働いていた家で、遠目に一度だけ見た“大物”に、あのお嬢様が似ている。
……
絵梨花は記憶を辿り、自分の部屋だと思っていた場所へ戻った。
扉を押し開け――そこで、言葉を失う。
部屋は一面、ピンク。
壁は淡いブルーに、幼いピンクの差し色。床には分厚い毛足の長いラグ。ベッドの上にも、小さなソファの脇にも、ぬいぐるみが山ほど。机には鮮やかな多肉植物まで並んでいる。
温かい。
だが、絵梨花の好みではない。
そのとき、スマホが鳴った。
絵梨花は扉を閉め、机の前に腰を下ろす。机の上にはノートパソコン。
電源を入れ、白い指でキーを数回叩く。続けてスマホを取り出し、ケーブルで接続した。
黒い画面がぱっと明るくなり――苛立ちを隠さない男の顔が映る。異国の血が混じった整った顔立ち。ひと目でハーフだと分かる。
彫りの深い眉目、高い鼻。
そして何より、目。人を引きずり込むような、危うい色。
男は画面越しに吐き捨てた。
「ふざけんな! 西村雅哉の野郎、俺を捕まえるためにまたハッカー雇いやがった! 金が余ってんのか? 頭おかしいだろ……」
言葉が、途中で途切れた。
アリスの目が見開かれる。
「……は?」
次の瞬間、顔が引きつった。
「いや待て。俺の部下が……お前の部屋、こんな風にしたのか?」
ピンク。やたらと可愛らしい部屋。
絵梨花と噛み合わなさすぎる。
アリスは恐る恐る絵梨花を窺う。
もともと彼女には負い目がある。ここで機嫌を損ねたら終わりだ。
絵梨花は眉を上げた。
「違う。石原家に戻った」
「……マジで居られたのか」アリスが目を丸くする。
画面の向こう、彼の背後には狭い路地。汚れた壁。薄汚れた人影。通りすがりが彼を一瞥して、すぐ目を逸らす。
当然だ。アリスは黒い小型拳銃を指先で弄びながら話している。
絵梨花は小さく頷いた。
「まあ……家族のことだし、俺が口出す筋じゃねえか」アリスは残念そうに言い、すぐ本題へ切り替える。
「絵梨花。西村雅哉のPC、落としてくれない?」
「何のため」
「黒いネタ全部ぶち撒ける。俺ばっか追って楽しいのかよ」
アリスは苛立ちを吐き出しながらも、急に言い訳めいた口調になる。
「……見るな。去年ちょっとからかっただけだ。やりすぎてねえ。お前まだガキだろ、悪いこと教えるわけねえだろ」
絵梨花は黙って聞いていた。
アリスは知らない。今回、西村雅哉に“手がかり”を渡したのは、絵梨花のほうだということを。
ひとしきり毒づいて、アリスはようやく息を整えた。
「そうだ、ひとつ言っとく。昨日、西村雅哉の連中とやり合って分かった。あいつら、あの場所の情報を掴んだ。しばらくしたら行くらしい。裏で風水師も探してるって話だ」
「探り、入れるか?」とアリスが問う。
絵梨花の目が冷える。口元がわずかに吊り上がった。
「また狙ってるの?」
「そうだ。あそこはヤバい。信じる信じないじゃねえ」
アリスは吐き捨てるように言う。
「前に西村雅哉の連中が入った時、全滅した。だから今回は念入りに準備するつもりらしい。まともな風水師、それから……隠れた名門にも声をかけたって噂だ」
「分かんねえよな」アリスは呆れたように笑う。
「お前ら、なんであんな場所に執着すんだ。普通に生きりゃいいだろ」
絵梨花は淡々と言った。
「行かせればいい」
「止めないのか? お前の師匠、あの近くで消えたんだぞ」
「……処理する人間がいる」
アリスはすぐに察して、口角を上げた。
「性格悪いのはお前だな。よし、情報は流してやる。その代わり、俺の行方は隠しとけよ」
「分かった」
通話が切れる。
絵梨花は黒いスマホを見つめたまま、長い間、視線を落とした。
