第4章
「勝人、久しぶり」
電話の向こうから聞こえた女の声に、平床勝人は明らかに虚を突かれたようだった。その表情は困惑から驚きと喜びへ変わり、全身に活力がみなぎっていく。
「明子? 帰国したのか?」
勝人の声は普段よりずっと高く上ずっていて、その興奮が私の心を重く沈ませた。
鈴木明子——その名を聞くのは初めてではない。この一年余りの付き合いの中で、勝人が時折口にしていた、かつて彼の心の中で特別な位置を占めていた少女の名前だ。
二人はかつて親密な関係だったが、明子の海外留学を機に別れたのだという。
「よかった、もちろん会いたいよ」
勝人は快活に答えた後、ちらりと私に視線を向け、少し声を落とした。
「俺の彼女? ああ……わかった、連れていくよ」
通話を終えた勝人の瞳には、久しく見ていなかった輝きが宿っていた。
「真菜、明子が帰ってきたんだ。お前に会いたいってさ。明後日の夜、銀座の『四季』で食事でもどうかって」
『四季』——東京でも最高級のフレンチレストランの一つだ。
「その人、誰?」
私は知らぬ振りを決め込んだ。
「鈴木明子、大学時代の……友人だよ」
彼は一瞬言葉を濁した。
「数年パリで働いてたんだけど、今回『VOGUE JAPAN』の副編集長として東京に戻ってきたんだ」
私は頷くだけで、それ以上は聞かなかった。
だが感じ取っていた。あの一本の電話から、勝人の心はすでにここではない何処かへ飛んでいってしまったことを。
◇
銀座の『四季』は絢爛豪華そのもので、天井のクリスタルシャンデリアが夢幻的な光を放っている。勝人に手を引かれて中に入ると、ウェイターが私のサングラスと白杖に気づき、すぐに気を利かせてサポートに来てくれた。
「勝人!」
涼やかな女性の声が響き、大理石の床を叩くヒールの音が続いた。
顔を上げると、そこには想像以上に眩い鈴木明子の姿があった。
完璧なカッティングの赤いドレスを纏い、漆黒の長髪は滝のように流れ落ち、唇は鮮やかな紅。
彼女は迷わず勝人のもとへ歩み寄ると、情熱的な抱擁を交わした。
「あなたが真菜さんね」
明子は私に向き直った。鳥肌が立ちそうなほど甘ったるい声だ。
「勝人からよく話は聞いてるわ」
彼女は自分から私の手を握ってきた。力加減は計算され尽くしている。
「席まで案内しましょうか? ここのレイアウト、あなたには少し複雑かもしれないし」
「ありがとう。でも、勝人がいるから大丈夫」
私は微笑んで返した。
ディナーの間、明子の振る舞いは非の打ち所がなかった——気配りもでき、友好的で、ユーモアもある。
勝人と共通の友人や過去の思い出、彼らの内輪話を語り合い、時折私に解説してくれるのだが、その言葉の端々には優越感が滲んでいた。
「真菜さん、あなたは本当に勇敢ね」
デザートが運ばれてきた頃、明子が唐突に切り出した。
「小さい頃から目が見えないのに、こんなに素敵に育つなんて、本当に尊敬しちゃう」
「お褒めいただき、ありがとうございます」
私は笑顔で応じた。
彼女の声は同情に満ちていた。
「それに、二人の馴れ初めなんて本当にロマンチック。療養所で出会って、目の不自由な二人が互いに支え合って……」
私はテーブルの下で、ナプキンを強く握りしめた。
「実は……」
訂正しようとしたが、明子はすでに勝人の方を向いていた。
「そうそう、来週末に箱根でハイキングを企画してるの。二人も来ない? 景色は最高だし、空気も綺麗で、誰にとってもいい気分転換になるわよ」
彼女はわざとらしく『誰にとっても』と強調したが、その視線はずっと勝人に注がれていた。
私は勝人が断ってくれるのを待った——何しろ私は『見えない』のだ。ハイキングなんて不便なだけだ。
「いいね」
しかし勝人の答えは予想外だった。
「久しぶりに山歩きも悪くない。昔はよく二人で企画してたよな」
「でも……」
私が自分の『視覚障害』について口を挟もうとすると、「真菜さんなら心配ないわ」明子が遮った。
「平坦なコースだから。私たちがちゃんとサポートするし、あなたにとってもいい経験になるんじゃない?」
勝人は助け船を出すどころか、むしろ乗り気な様子だった。
「決まりね!」
明子は手を叩いた。
「土曜の朝八時、新宿駅に集合よ」
店を出る時、勝人は明子との会話に夢中で、私を『誘導』することをほとんど忘れていた。
代わりに明子が時折振り返り、助けが必要か聞いてくる始末だ。
帰路についても、勝人は異常なほど興奮しており、明子のパリでの経験や彼女が知るファッション業界の有名人の話ばかりしていた。
「彼女、本当に特別だよな?」
勝人が同意を求めてきた。その声には、今まで聞いたことのない崇拝の色が混じっている。
「ええ、特別ね」
私は短く答えたが、胸のざわつきは強くなるばかりだった。
◇
カレンダーの日付に丸をつける——私の誕生日だ。
朝、勝人からメッセージが届いた。
『真菜、今夜の誕生日祝いだけど、無理かもしれない。明子が箱根ハイキングの打ち合わせをしたいって言ってて、遅くなりそうなんだ。また別の日に埋め合わせするから、いいかな?』
スマホの画面を見つめるうちに、涙が勝手に溢れてきた。
付き合って二度目の誕生日。そしてきっと、一緒に過ごすはずだった最後の誕生日。
でも、もうどうでもよかった。
人の目に宿る感情は嘘をつかない。
彼は、明子が好きなのだ。
事情を知った村木花子が、すぐに駆けつけてくれた。ケーキとプレゼントを持ってきてくれたが、私の心はもう晴れなかった。
「あいつ、あんたの気持ちなんてこれっぽっちも考えてないわよ」
花子は歯に衣着せぬ物言いで切り捨てた。
「目が治ってから、あいつは変わっちまった」
「最初から間違ってたのかもしれない」
私は窓の外の夜景を眺めた。
「嘘の上に築かれた関係に、いい結末なんてあるわけないもの」
「それでも箱根に行くの?」
花子が心配そうに尋ねる。
私は少し沈黙した後、きっぱりと頷いた。
「行くわ。最後のお別れだと思って」
「何が起きても、私がついてるから」
花子は私の手を握りしめた。
その夜、花子は私の誕生日に付き合ってくれた。
そして私は夢を見た。
断崖絶壁に立つ私の背後で、勝人が冷ややかな笑みを浮かべている。
彼は言った。
『消えろ。俺のあの恥ずべき過去と一緒に、消えてしまえ!』
