第1章
真希視点
手の中にある招待状。もう二十分もそうしている。
厚手の白いカード用紙に、金の箔押し文字。『黒田画布』の署名とも言える、簡素で洗練された意匠――粒子化された光の点が浮かぶ、黒い画布。
「真希さん、これは私たちの生命線よ」後ろに立つ中村知子の声は、興奮を隠しきれていない。「キュレーション料で500万、それに加えてこの露出……これなら本当にやっていける」
私のギャラリー、青木工房――繁華街の芸術エリアの最も目立たない一角に押し込まれた、30平方メートルほどの空間。壁は、私の最新の個展『亀裂』で埋め尽くされている。
二十点の作品。すべてが、壊れることと修復されることについてのものだ。
金継ぎで縫い合わされた、粉々の磁器。
一つひとつ組み直された、割れたガラス。
丁寧に貼り合わせられた、引き裂かれた写真。
どの作品も、同じ物語を語っている。壊れてしまったものは、二度と元には戻らない。けれど、その亀裂自体が美しいものになり得るのだと。
「聞いてる?」中村知子が肩を突いてくる。
視線が、招待状の最後の一行に落ちる。
『キュレーションの提案は、黒田潤氏による私的な審査と承認を条件とする。審査には七日間を要し、その間、キュレーターは全ての対応に応じられる状態でなければならない』
七日間。
黒田潤と、七日間。
手が震えている。
「真希さん?」
「考えてる」私は振り向き、招待状を机に置いた。「このコラボレーション……裏があるはずよ」
中村知子は戸惑った顔をしている。「裏って? 普通のビジネス契約でしょ? 『黒田画布』がここで技術美術展をやりたくて、パートナーとしていくつかのギャラリーを選んだって――」
「でも、黒田潤本人から直接承認を得なきゃいけないのは、うちだけ」私は彼女の言葉を遮った。「中村さん、黒田潤が誰か知ってる?」
「もちろん」彼女は目を輝かせた。「技術革新の聖地の伝説。三十歳になる前に十億円規模のAIアートプラットフォームを築き上げた人よ。経済誌の『未来を創る30人』にも選ばれて――」
「私の元夫」
中村知子の声が消えた。
私は目を閉じる。記憶が洪水のように押し寄せてきた。
三年前。あの夜。
市立劇場。村上千尋のダンスの初演。
潤は一緒に来ると約束してくれた。「君にとってアートは大事なものだ」彼はそう言った。「だから私にとっても大事なんだ」
私は黒のカクテルドレスを着ていた。潤が背中のジッパーを上げてくれたけれど、その手つきは不器用ながらも優しかった。結婚して一年、彼が自らアートイベントに付き合うと言ってくれたのは初めてだった。
それは良い兆候だと思った。
私たちの契約結婚が、少しずつ本物になり始めているのだと。
オープニングは圧巻だった。村上千尋は評判通りの素晴らしさで――彼女の身体は詩のように動き、一つひとつの仕草が物語を紡いでいた。
休憩時間、私は潤と感想を分かち合おうと振り返った。
彼の席は空だった。
五分待った。十分待った。
照明が落ち、第二幕が始まる。
それでも彼は戻ってこなかった。
終演後、彼を見つけた。
バックステージへと続くガラスのドアの向こう。廊下に立つ潤と、その腕の中で泣いている千尋。彼は、私が今まで一度も見たことのないような優しさで、彼女の背中を撫でていた。
二人は話していたが、声は聞こえなかった。
私にできたのは、ただ見ていることだけ。
夫が、私には決して見せたことのない優しさで、他の女性を慰めているのを。
家路につく車の中、私たちは一言も話さなかった。
家に着くと、私はヒールを脱ぎ捨て、水を一杯呷ってから、彼に向き直った。
「契約は、早期終了できると思うわ」
潤は数秒間、凍りついた。彼の顔をよぎったのは――驚き? 苦痛? それとも、ただ……予期せぬ出来事に対するものだったのか。やがて彼は、いつもの仕事モードの冷静さを取り戻した。
「君が決めたことなら」彼の声は、まるで天気のことを話しているかのように落ち着いていた。「弁護士に書類を作成させる」
それだけだった。
一年の結婚生活。わずかな言葉で、すべては終わった。
「真希さん?」中村知子の声に、私は現実に引き戻される。「あなた……黒田潤と結婚してたの?」
「契約よ」私は訂正する。「青木ギャラリーを救うため。彼は投資家向けに、安定した既婚男性のイメージが必要だった。私は現金が必要だった。お互い、欲しいものを手に入れただけ」
「それで?」
「それで離婚したの」私は招待状を手に取る。「これで、このコラボレーションがどれだけ複雑か分かったでしょ」
中村知子は一瞬黙り込む。「でも、これが必要なのよ。真希さん、大きなプロジェクトがなければ、来月の家賃さえ払えないんだから」
彼女の言う通りだ。
私に選択肢はない。
「分かった」私は深く息を吸い込む。「受けて。黒田画布には、審査に応じるって伝えて」
翌朝十時きっかり、潤はギャラリーのドアの前に現れた。
二年ぶり。
彼は変わっていた。
もっと成熟して、顔立ちもシャープになっている。黒いタートルネックに、ジーンズと白いスニーカー。まさにあの界隈の成功者の装いだ。
シンプル。だけど、一つひとつのアイテムが一流品だ。
彼の目は以前よりも鋭く、どんな問題でも一瞬で切り裂いてしまいそうな、研ぎ澄まされた刃のようだ。
「青木さん」彼は私の苗字を呼ぶ。その声は丁寧だが、よそよそしい。
かつて午前三時に「眠れない。会いたい」なんてメッセージを送ってきた男が、今では私の名前すら呼ぼうとしない。
「黒田さん」私も彼と同じ距離感で応じる。「どうぞ」
彼はギャラリーに入ってくる。視線が『亀裂』の展示に数秒間留まるが、何もコメントはしない。
「始めましょう」彼はノートパソコンを開き、会議テーブルの上に置いた。「私には七日しかありません」
七日しか。
彼はそれを何でもないことのように言う。まるで七日間が彼にとって何の意味も持たないかのように。
でも私にとって、黒田潤と同じ空間で過ごす七日間は――その一分一秒が拷問になるだろう。
「ええ」私は彼の向かいに座る。「こちらが私の一次キュレーション案です――」
用意していた展示ボードを広げる。テーマは「アートとアルゴリズム」。伝統的なアート作品と、デジタルなインタラクティブ・インスタレーションを融合させるものだ。
「ここに何かを配置することができます――」私はボードの一角を指さす。
潤はボードの角に手を伸ばし、もっとよく見ようとする。
彼の指が、私の指に触れた。
ほんの一瞬。
私たちは二人とも、感電したかのように手を引いた。
空気が凍りつく。
私はボードに視線を落とし、何事もなかったかのように装う。「先ほど申し上げたように、このエリアは――」
「分かった」潤は私の言葉を遮る。声が強張っていた。「この提案は……ポテンシャルはある。だが、調整が必要だ。明日は私のチームを連れてきて、データ分析を行う」
「データ分析?」
「そうだ」彼はノートパソコンを閉じた。「アートにも科学的な評価は必要だ」
議論は三時間続いた。
プロフェッショナルで、効率的で、冷たい。
まるでビジネス会議そのものだ。
夕方六時、潤は帰る準備を始める。ファイルをまとめ、立ち上がり、ドアに向かって歩き出す。
彼はもう一言も発さずに去っていくのだと思った。
だが、彼は戸口で立ち止まる。私に背を向けたまま。
数秒の沈黙。
それから彼は言った。「君の『亀裂』展……あれは、良い」
心臓が跳ねた。
今日一日、彼が仕事以外のことを口にしたのは、これが初めてだった。
「ありがとう」私は声を平静に保とうと努める。「また明日」
彼は去っていく。
振り返ることはなかった。
中村知子が倉庫からひょっこり顔を出す。「なんてこと、真希さん! 黒田潤本人があなたの展示を良いって! 彼がアートを褒めることなんて絶対ないって知ってる? テック業界の人たちに言わせれば、彼はアートは定量化できないから評価する時間も無駄だって思ってるらしいわよ」
私はドアの外を見ている。潤の車がまだ路上に停まっていた。
彼は運転席に座ったまま、エンジンをかけようともせず、ただハンドルをじっと見つめている。
彼は……疲れ果てているように見えた。
「ええ」私は静かに言った。「定量化できないものね」
かつて私たちが持っていた、すべてのもののように。
契約の外に存在した、あの本物の瞬間たち。
それらは定量化できない。そして、取り戻すこともできない。
