第2章

車内は冷房がきつい。

吉崎直子の長い指が、キーボードを疾風みたいに叩きつける。

モニターにはコードが雪崩れ、緑の文字列が彼女の冷えた瞳に映り込む。どこか投げやりな薄い寒気まで漂っていた。

いまの彼女は、別人みたいに圧がある。

この光景を見た人間がいたら、顎が外れるだろう。

ハッカーランキング首位――「零」。

その正体が、十代の少女だなんて。

「ボス」

Bluetooth越しに部下の声が入る。

「吉崎広峰のほう、もう発狂寸前です。あちこちに頭下げて、羽島家に取り入ろうとしてます」

直子は唇の端だけを吊り上げ、瞳に戯れの光を宿した。

上に媚びる?

寝言は寝て言え。

「吉崎由紀を羽島家に嫁がせるために、本来あなたの持参金だったものまで上乗せして渡したって話です」

部下の声には苛立ちがにじむ。

「このまま引くんですか? あいつら、得しすぎじゃないです?」

得?

直子は手を止め、綺麗な瞳に露骨な嘲りを浮かべた。

「縁を切ったんだから、餞別くらいは渡さないとね」

次の瞬間。

エンターキーを、指で強く叩く。

画面に赤い感嘆符。続いて進捗バーが一気に100%へ跳ね上がった。

「吉崎グループが取り付けた『10億の大口案件』、消しておく」

同時刻。

吉崎家の別荘は、蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。

羽島家を足掛かりにのし上がる夢に酔っていた吉崎広峰へ、一本の電話が入る。

「吉崎様! 大変です! 社内システムが突然ダウンして、データが全部消えました! さっき契約した10億の契約書も……見つかりません!」

「……何だと?!」

広峰は跳ね起き、顔面が一気に青ざめる。

携帯が手から滑り落ち、ぱたん、と床に乾いた音を立てた。

あの契約は命綱だ。失えば説明がつかない。

吉崎家は傾きかねず、莫大な負債まで背負う羽目になる。

「ありえない……! 技術部だ! 今すぐ復旧しろ!」

ロールスロイスの車内。

直子はノートPCを閉じ、相変わらず気怠げな表情のままだった。

ハッキングの腕を磨くうち、彼女はいくつもの事実を掘り起こしてきた。

去年になって知ったのだ。吉崎広峰というクズ男が、かつて林原家に取り入ろうとしていたこと。実母の林原澄子が、確かに広峰に言いくるめられていたことを。

だが林原家は広峰を認めなかった。

澄子の妊娠が分かった瞬間、林原家は「父はいらない、子だけ残す」と決めた。名家の財力があれば、子ども一人などどうとでもなる。

捨てられた広峰は狂った。

襁褓の彼女を奪い、鈴村紀子に『受け皿』をさせた。さらに直子を実子だと信じ込ませるため、完璧な嘘まででっち上げた。

鈴村紀子はいまだ知らない。

最初の子は死産だったことを。

そして自分が――吉崎広峰と、謎めいた名門・林原家の唯一の後継者である林原澄子の子であることを。

広峰は彼女を『切り札』として匿名で田舎に隠し育てた。いつか林原家を脅すために。

十八年。まるまる。

この渣親父、本気で自分が切り札を握ってるとでも?

いま、その切り札は消えた。

なら吉崎家も、代償を払うべきだ。

「ボス、前方が御景荘園です」

車は京市でもっとも謎めいた高級住宅地へ、ゆっくりと入っていく。

寸土寸金。その中でも御景荘園は、金だけでは買えない。住めるのは、頂点の権勢を持つ者だけだ。

林原家は、直子が身の上を突き止めた直後に探し当てた。

この邸宅は林原澄子が贈った『顔合わせの礼』。

母娘はまだ一度も会っていない。だが、このスケールだけは桁外れだ。

車が停まる。

門前で待っていた執事が小走りに寄り、腰を深く折った。

「お嬢様。ようやくお帰りになりました」

直子は片手をポケットに入れたまま、淡々と頷く。

御景荘園はすべて一戸建て。

庭へ足を踏み入れた彼女の視線が、防塵布のかかったピアノに留まった。

「……これ、壊れてる?」

執事が慌てて説明する。

「はい、お嬢様。十八世紀のアンティークで、数日前から鍵盤の反応が鈍く……国際的な名匠にも何人か診ていただいたのですが、修理が叶わず」

直せなかった?

直子は布を払って、鍵盤を軽く押す。

確かに、音がこもっている。

「工具、持ってきて」

執事が固まった。

「……お直しになるのですか?」

値は計り知れない。下手をすれば――。

だが直子の表情は揺るがない。執事は言葉を飲み込み、急いで工具箱を手配した。

直子は腰を下ろし、迷いなく蓋を外す。

十分も経たず、複雑な内部構造が分解され、そして組み上がっていく。

執事は呆然とした。

お嬢様が、ピアノ修理まで?

名匠でも数日かけて慎重に行う作業を、数分で。

「……終わり」

最後の部品を収め、直子は両手を鍵盤へ。

次の瞬間、流麗で激しい旋律が庭へ溢れ出した。

執事は息をのむ。

この腕前――。

金色ホールで聴いた演奏より、胸を揺さぶる。

同時刻。

少し離れた別の邸宅。

揺り椅子で目を閉じていた羽島の老人が、はっと目を開いた。

「この音……!」

興奮で体を起こす。

「《運命》だ……しかも、こんな完璧に弾ける者がいるのか。作者以上の張力だ!」

テンポだけじゃない。内包された感情が、背筋をざわつかせる。

「早く! 外へ出せ! 誰が弾いている、見に行く!」

羽島の老人は筋金入りのピアノ狂で、長年『知音』を探してきた。

まさかここでこんなに美しい音を聴けるとは思わなかった。

隠棲した巨匠でも訪れているのか――。

だが庭へ駆けつけた時には、すでに曲は止み、奏者の姿も消えていた。

羽島の老人は眉間に皺を刻み、歯噛みする。

「……遅かった……!」

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