第3章
邸内。執事が水を差し出した。
「お嬢様、ようやくお戻りです。まずはお部屋で少しお休みくださいませ」
吉崎直子は受け取り、淡々と頷く。
「うん」
「それと……」
執事は言葉を選ぶように一拍置いた。
「林原家よりお伺いがございました。お嬢様のための歓迎の席を、いつ設ければよろしいかと。林原家のお爺さんも、叔父様方も皆さま……そしてお母様も……お嬢様にお会いしたがっております」
直子はグラスを口に運ぶ手を止めた。
林原家。
やはり、底が見えない大きな一族だ。
吉崎家みたいに、骨の髄まで搾り取ろうとする連中とは違う。
必要以上に慎重で、遠慮がちで――それが、かえって居心地がいい。
「急がない」
直子は水を置いた。
「明後日、吉崎家は婚約の席でしょ。……大きな贈り物を届けに行く」
縁を切るなら、徹底的に。
吉崎由紀が自分の原稿を盗んで発表した借りは、まだ返していない。
「歓迎の席は週末で」
「かしこまりました、お嬢様」
執事はほっと息をつく。会ってくれるなら、それでいい。
午後2時。直子は着替えて外へ出た。
白いTシャツにカーゴパンツ。キャップを深く被り、覗くのは顎先だけ。
運転手は付けず、ひとりでタクシーを拾い、都心のモールへ向かう。
京市屈指のラグジュアリーモール。
そして――彼女名義の資産の一つでもある場所。
2階、ジュエリーエリアに足を踏み入れた瞬間、聞き覚えのある声が飛んできた。
「まあ、誰かと思ったら。家を追い出された負け犬じゃない」
……つくづく、運が悪い。
直子は足を止め、顔を上げた。
少し先で、鈴村紀子が吉崎由紀の腕を絡め、露骨な蔑みで見下ろしている。
今日の由紀はヴェルサーチのオートクチュール。メイクも完璧で、首元にはネックレスを試着中だった。
直子は一目で気づく。Queenの昨年作『星河』。ただし――。
直子の視線がそのネックレスに一瞬だけ留まり、口元に薄い笑みが浮かんだ。
「吉崎家を追い出されて、食べるものもないの? ここに冷房でも盗みに来た?」
紀子は値踏みするように上下を見て、鼻で笑う。
「そんな恰好で、こんな場所に入れると思って? さっさと消えなさい!」
実の娘だと思うだけで腹が立つ。
みすぼらしくて、みっともない。どうして自分がこんなものを産んだのか。
由紀は紀子の袖を引き、弱々しい声を作った。
「ママ、そんな言い方しないで……直子は、ただ見学したいだけかもしれないよ。田舎じゃ、こんなモール見たこともないだろうし……」
そう言いながら、わざと胸を張り、首元のネックレスに触れてみせる。
「直子、これ綺麗? Queen先生の限定モデルなの。500万よ。ママが婚約の贈り物に買ってくれるって……」
横の販売員が気まずそうに口を開きかけた。
――それは展示用の精巧な偽物だ。
「吉崎様、こちらは……」
説明しようとした、その瞬間。
直子が、ふっと笑った。
「500万?」
眉を上げ、由紀の虚栄に塗れた顔を見る。
「……うん。確かに、あなたにお似合い」
偽物には、偽物の持ち主が似合う。
由紀は含みを読み取れず、嫉妬だと受け取って顎を上げた。
「当然でしょ! 喜太郎が言ってたもの。わたしにはQueenのデザインしか似合わないって! あなたみたいな人、一生こんな高いもの身につけられないわ!」
「そう?」
直子は両手をポケットに突っ込み、気怠げに言う。
「そんなに好きなら買えばいいじゃない。……それとも吉崎家、今は500万も出せないの?」
その一言が、紀子の急所を刺した。
午前中に十億の案件が飛び、資金繰りが苦しくなっている。――けれど、この娘の前で面子は潰せない。
「誰が買えないって言ったの!」
紀子はカードを叩きつけるようにカウンターへ置いた。
「包んで! 今すぐ決済!」
販売員の顔色がさっと青くなる。
これを売れば、偽物だと露見した時にモールの信用が終わる。
「吉崎奥様、ですが……」
声が震え、額に汗が滲む。
「残高が心配?」
紀子は目を吊り上げた。
「早くしなさい! 何をグズグズしてるの!」
直子は横で眺め、瞳を細めた。滑稽でたまらない。
彼女は黒いカードを二本の指で挟み、販売員の視界に一瞬だけちらつかせる。
黒金の至尊カード。
世界限定10枚。
このモールの『本当のオーナー』である証。
販売員は目を疑った。
この地味な少女が――?
直子は小さく頷く。目で告げる。売って。
理解の早い販売員は、すぐに深呼吸し、プロの笑みに切り替えた。
「かしこまりました、吉崎奥様。吉崎様にもお気に召していただけたようで、当店としても光栄です。すぐにお包みいたします」
500万でガラスの偽物を宝物として買ってくれるなら、むしろありがたい。
しかもオーナーの指示。何が起きても上が責任を取る。
「やっと分かったのね」
由紀は冷たく鼻を鳴らし、直子を見下ろす。
「見た? これが差ってものよ。田舎者は一生、泥遊びがお似合い!」
由紀は首元のネックレスに触れながら、胸の内を甘く膨らませた。
これで婚約の席は、自分が主役だ。
その頃。
モール3階の手すり際に、一人の男が立っていた。
仕立てのいい高級スーツ。長身で、彫りの深い顔立ち。特に瞳が鋭く、天性の気品が宿っている。
視線は2階のキャップの少女へ注がれていた。
先ほどの一部始終を、彼は見ていた。
少女が黒金カードを一瞬見せた、その瞬間まで。
羽島浩介は薄い唇をわずかに緩め、低く笑う。
「……面白い」
背後の秘書が目を丸くした。
「浩介様、何がそんなに……?」
万年氷山が、笑った。
「ちょっとした」
浩介は眉を上げる。
「……面白い野良猫を見つけた」
安物の格好なのに、黒金カード。
暴けるのに暴かず、愚か者が自滅するのを眺めている。
その性格の悪さが、妙に好みだった。
「調べろ」
浩介は視線を引き、声をいつもの冷淡さへ戻す。
「……彼女が誰か」
「承知しました」
秘書が視線の先を追うと、見えたのは背中だけ。
気の毒に。羽島浩介に目を付けられたら、逃げ切れる者などいない。
直子は3階の出来事など知らず、機嫌よくモールを出た。
あの偽物は、少しでも目利きがいれば一目で分かる。
婚約当日――。
きっと、いい絵になる。
明後日が、少し楽しみになってきた。
