第4章
夕暮れ。
御景荘園。
吉崎直子が戻ると、背後ではボディガードが二人、ブランド物の紙袋を山ほど提げていた。
執事は門の前で待ち構えており、彼女の姿を認めるや、ようやく胸を撫で下ろしたように歩み寄る。
「お嬢様。お買い物でお疲れでしょう。お夕食は厨房でご用意しております」
吉崎直子は小さく頷くだけで、淡々と玄関へ入り、靴を脱ぎ替える。
執事が後ろに付き、鞄を受け取った。
「そういえば……お嬢様が先ほどお弾きになったピアノを、お隣の邸の羽島家のご当主様が耳にされたそうで。どの名匠がこちらへお越しなのか、と人を遣わして問い合わせがございました」
「羽島のお爺さん?」
吉崎直子が眉を上げる。
羽島喜太郎の祖父――あの羽島家の老当主。
「はい」執事は恭しく続けた。「お嬢様もご存じのとおり、羽島家は――」
「知ってる」
吉崎直子が遮る。
「次は、ありのまま答えて」
ちょうどいい。彼女が欲しいものは、羽島のお爺さんなら用意できる。向こうから扉を叩いてきたなら、手間が省けるだけだ。
執事の目がぱっと輝く。
「……では、お嬢様は――」
「林原家の令嬢」
それだけ言い捨てて、吉崎直子は振り返りもしないまま階段を上がった。
背後で、執事は感極まったように声を震わせる。
「よ、よろしい……! お嬢様がご自分の口で林原家のご令嬢だとお認めになったと知れば、旦那様もきっとお喜びになります……!」
二階。
吉崎直子はシャワーを浴び、窓際の椅子に腰を下ろして息を整えた。
何気なくスマホを開くと、京市の令嬢グループのチャットが、今夜もやけに賑やかだった。
戻ってきた直後、吉崎由紀に招待されて入ったグループ。
表向きは社交の場、実態は噂話と見下しの品評会。折に触れて彼女を名指しし、薄笑いを貼り付けた嫌味を投げてくる。
『このネックレス、見たことある?』
『このブランド知ってる?』
どれも「上」を演じるための小道具だ。
今はちょうど、吉崎由紀が“星河”のネックレスで大はしゃぎしている最中だった。
画面を上へスクロールすると、写真が十枚、動画が三本。
コメント欄は、見事なまでにお追従の嵐。
『やば……Queen先生の作品じゃん! あの人のデザインって本当に手に入らないよね!』
『由紀、ほんとに愛されてる。うちの親なら迷うレベルだよ』
『500万だって。お母様、太っ腹すぎ』
由紀は一応「そんなことないよ」と控えめなフリをしつつ、わざわざ吉崎直子をメンションしてきた。
『このネックレス、可愛い? 世界的トップデザイナーQueenの作品だよ』
同時に、由紀から個別メッセージが届く。
『触ったこともないでしょ。よく見ときな。これからは写真を見る機会すらないから』
表と裏で、見事に二枚舌。
吉崎直子は鼻で笑い、そのまま由紀をブロックした。
本物と偽物の区別すらつかない浅はかな愚か者に、視線をくれてやる価値もない。
連絡先を開き、すぐに平村俊へ電話をかける。彼女の有能な部下の一人だ。
コールが繋がった瞬間、平村俊が先に叫んだ。
「ボス! え、マジっすか! 俺に連絡してくるとか……!?」
吉崎直子の冷えた声には、どこか倦怠が混じっていた。
「うん。ひとつ頼む。私の山荘のほうに行って、“星河”を持ってきて」
「星河……?」平村俊が息を呑む。「あれって、販売しないで展示だけにするって決めてた作品じゃ――」
「聞かないで」
吉崎直子は淡々と切る。
「準備して。デザインの手稿も、鑑定書も。全部まとめて」
平村俊は察したように、笑い声に熱を滲ませた。
「……なるほど。盛大にやる気っすね?」
「うん」
吉崎直子は唇の端だけをわずかに持ち上げ、通話を切った。
由紀がグループで必死に目立とうとしたところで、所詮は身内の小さな舞台。
婚約披露の席で、万の視線を浴びながら“主役”を気取るほうが、よほど愉快だろう。
そんなに存在感が欲しいなら――叶えてあげる。
吉崎直子は軽く伸びをして立ち上がり、ふと窓の外を見る。
隣の邸の二階に灯りが点いていた。
その瞬間、瞳がわずかに揺れ、彼女はまっすぐ階下へ向かう。
ピアノの前。
細い指が鍵盤に落ちた刹那、静まり返った夜へ《運命》が流れ出す。
宿命を背負った旋律が、伸びやかに、しなやかに――風に攫われ、空へほどけていく。
二分も経たないうちに、玄関の扉が叩かれた。
どん、どん、と熱のこもった音。
羽島のお爺さんだ。興奮で顔を赤くし、手のひらで扉を叩き続けている。
執事が慌てて応対に出る。羽島のお爺さんが口を開くより先に、にこやかに告げた。
「お嬢様がピアノを弾いておられます。羽島のお爺さん、いかがなさいましたか」
「お、お嬢様だと……? 林原家の令嬢……?」
羽島のお爺さんは目を見開き、信じられないと首を振った。
「まさか、あれほどの《運命》を弾いたのが……小娘だと言うのか!?」
彼はかつて、国際的に名を馳せる巨匠と出会ったことがある。
その者が弾いた《運命》に、胸を締めつけられ、涙を落とした。
意気投合し、連絡先も交換した。誕生日の宴で演奏を頼む約束までした。
だが――招待状が届く前に、巨匠は病で世を去った。
それ以来、彼は同じ曲を弾ける者に出会えずにいる。
若い少女が、どうしてこの“失われた音”を弾ける?
昂ぶりを抑えきれず、羽島のお爺さんは執事へ頭を下げた。
「林原家のご令嬢に、お目にかかれないだろうか」
執事は内心で息を呑む。
羽島家の老当主が、これほど低い声で、これほど丁寧に「会いたい」と言うなど――見たことがない。
「恐れ入ります。どうぞ、中へ」
羽島のお爺さんは待ちきれない様子で足を踏み入れた。頬は上気し、足取りは驚くほど軽い。
距離が縮まるにつれ、ピアノの傍らにいる少女の姿がはっきりする。
ひやりとした佇まい。
指先は気ままに踊りながら、音だけは寸分の迷いもなく世界を支配していく。
まるで運命を操る神のようだ――。
羽島のお爺さんは堪えきれず、早足で近づいた。
「やはり……《運命》を弾く者は、ただ者ではない!」
吉崎直子は視線を上げず、返事もしない。
曲が終わり、最後の余韻が消えたところで、ようやく顔を上げて淡々と言った。
「お褒めにあずかり、光栄です」
「褒めておるのではない、事実だ!」
羽島のお爺さんは目を輝かせ、食い入るように見つめる。
「それに第二楽章――あそこは特に見事だった。構えが大きく、雄大さが増していた!」
吉崎直子は龍井茶を一杯、彼の前へ滑らせる。
「羽島のお爺さん。わざわざ来てくださったのは、私を褒めるため?」
羽島のお爺さんは一瞬きょとんとし、やがて腹の底から笑った。
「面白い子だな。知っておるか、わしに“褒めろ”と迫れる人間など、世界に三人もおらんぞ」
「その三人に入れたなら、光栄」
吉崎直子は眉をわずかに上げ、興味なさげに茶を口にした。
羽島のお爺さんは声を弾ませる。
「では、友人になってくれんか。正直に言えば、わしはこの曲を弾ける者を長年探してきた」
「友人?」
吉崎直子が小さく笑う。
羽島のお爺さんの顔が強張る。
「なんだ、わしのような老人は嫌か」
「違う」
吉崎直子は首を振る。
「嫌じゃない」
羽島のお爺さんは安堵し、しみじみと頷いた。
「それならよい。お前ほどの腕を、隠しておくのは惜しい。明後日、うちで宴がある。遊びに来んか。みんなに一曲聴かせてやってくれ」
吉崎直子は口元をわずかに吊り上げた。
誘導するまでもなく、向こうから望む形を差し出してきた。
「どんな宴?」
羽島のお爺さんは鼻を鳴らし、どこか蔑むように言った。
「孫の婚約だ。羽島喜太郎――知っておるか」
吉崎直子はわずかに間を置く。
「……ええ。でも、林原家の令嬢として行くのは避けたい」
羽島のお爺さんは大きく手を振った。
「心配するな。招待状は執事に持たせて届けさせる。お前はわしが招いたピアニストとして来い。主賓席だ」
吉崎直子は伏し目がちに茶を置いた。
その眼底を、冷たい光がすっと走る。
「いいね。じゃあ、賑やかしに行く」
羽島のお爺さんは彼女の言葉の裏を読み取らず、満足そうに頷くと、そのまま帰っていった。
