第5章
二日後、羽島家の本邸。
婚約披露パーティー当日。
羽島家と吉崎家の婚約は一か月も前に公式発表され、京市の名だたる面々がほとんど顔を揃えていた。
本邸の裏庭。
吉崎由紀は羽島喜太郎の腕に絡みつき、深い紫の星空を思わせるロングドレスに身を包む。胸元にはデザイン界の巨匠・Queenの同テーマのネックレス。照明を受けて、眩しいほどに煌めいていた。
祝いに来た令嬢や夫人たちの目が、自然とそこへ集まる。
「吉崎さん、そのネックレス……Queen先生の作品でしょう。限定品で、お金があっても手に入らないって」
「吉崎家は養女にほんと優しいわねぇ。羽島家との縁談まで整えて。生まれつきツイてるのよ」
耳に入った瞬間、由紀の胸はふわりと甘く膨らむ。つい隣の男へ視線を向けたが――。
羽島喜太郎は、彼女ほど浮かれていなかった。どこか上の空で、視線が落ち着かない。
由紀は不快を一瞬で押し込み、柔らかな声を作る。
「喜太郎、何を見てるの?」
喜太郎は視線を戻し、素っ気なく。
「別に」
婚約まで決まったというのに。
あの女は相変わらず、電話もメッセージも返さない。まるで最初から存在しないみたいに。
由紀が唇を噛み、言葉を探した、その時。
庭の入口がざわりと揺れた。
小さなどよめきが波のように広がる。
喜太郎が顔を上げる。反射的に二歩、前へ。
次の瞬間、目が釘づけになった。
そして由紀も、凍りついたように動けない。
歩いてくるその影を、ただ睨みつけることしかできなかった。
吉崎直子が、ゆったりと姿を現した。
黒のロングドレス。繊細な鎖骨と、しなやかな肩から首のライン。腰まで届く巻き髪が揺れる。
歩くたび、花が咲くように足取りは軽く、腰がしなやかに波打つ。海底の妖艶な人魚のような神秘と気品――生まれつきの『格』が、そのまま形になったかのようだった。
一瞬、誰も彼女が誰なのか分からない。
ただ、視線だけが吸い寄せられていく。
「誰、あの人……! どこのお嬢さん? 綺麗すぎる……」
「気迫が違う」
「え、待って……あれ、吉崎直子じゃない? 吉崎家が田舎に置いてた……」
「嘘でしょ。吉崎直子……? 由紀さんより、ずっと――」
由紀の瞳孔がきゅっと縮む。直子が近づくほど、顔から血の気が引いていった。
ありえない。
吉崎家ではいつも俯いて、びくびくして、貧乏くささを隠しきれなかった『田舎者』が――どうして、こんな空気を纏える?
ドレスはどこから? 招待状は?
それより何より、直子の淡々とした目。人を見下ろすでもなく、ただ『同列ではない』と告げるような視線が、由紀の胸を冷たく沈めた。
さらに致命的だったのは――。
喜太郎が一瞬たりとも目を逸らさないこと。まばたきすら惜しむような、露骨な見惚れ方。
由紀は咄嗟に母へ視線を投げる。
「ママ、直子が……」
鈴村紀子も客の相手をしながら異変に気づいていた。
その目に憎悪が走る。あの死に損ない、絶対に潰しに来た。
紀子は早足で使用人のもとへ寄り、低い声で命じる。
「邪魔しに来たのよ。警備を呼んで、今すぐ追い出しなさい」
その言葉に、喜太郎が眉を寄せた。
「待て」
使用人の足が止まり、固まる。
紀子と由紀は目を合わせた。そこにあるのは、狼狽と警戒。
由紀が震える声で尋ねる。
「喜太郎……あなた、彼女を知ってるの?」
喜太郎は答えない。喉仏がゆっくり上下し、直子へ歩み出る。
知っているどころじゃない。
一年前、彼は対戦ゲームで完膚なきまで叩きのめされた。そこへ現れた国サーバー級のジャングラーが、さらりと流れをひっくり返したのだ。
礼がしたくて、彼は最高級の装備を贈った。しつこく付きまとい、子分のように引っついて、食事に誘った。
そしてオフで会って――相手が女だと知った。清楚で、目を奪うほど整った顔立ち。近づきがたいのに、目が離せない雰囲気。
その日から、羽島喜太郎は吉崎直子に惚れた。
必死に追った。だが直子は、見向きもしなかった。
ブランドの宝飾も、ゲーム内の装備も、すべて冷淡に突き返された。
幼い頃から甘やかされ、望めば手に入る人生を歩いてきた羽島家の若様が、女に何度も断られるなど屈辱でしかない。なのに――直子は、さらに踏み込んで彼の自尊心をえぐった。
「羽島様、会ってご飯を食べたのは、ゲームの子分だと思ったから。まさか、私があなたを選ぶとでも?」
「ブランドなんて興味ない。装備も自分で取れる。要らないものを押しつけないで」
「若様って肩書きを好きになる人ばかりじゃない。それくらい、分かるでしょう?」
それでも喜太郎は折れなかった。むしろ燃えた。
ただ彼は、彼女のゲームIDは知っていても、本名が吉崎直子だとは知らない。
だから、吉崎家が田舎から『本物の令嬢』を迎えたと聞いても、結びつかなかった。
彼の中の直子は、あまりにも美しかったからだ。吉崎家が連れ戻したのは、田舎から来た冴えない娘だと思い込んでいた。
直子が完全に彼を無視するようになり、彼はようやく家の婚約話を受け入れた。
――なのに。
同じ『吉崎直子』だった。
喜太郎は息を呑み、つい唾を飲み込む。
「……おまえ、どうしてここに」
胸の奥で、あり得ない期待が芽を出す。
やっと自分の良さに気づいて、戻ってきたのかもしれない――と。
直子は淡々と告げた。
「招待状が届いたから来ただけ。あなたに会いに来たわけじゃない」
喜太郎の呼吸が荒くなる。言葉を重ねようとした瞬間、横から由紀がすっと前へ出た。
「お姉ちゃん、どうして……?」
相変わらず儚げな声。目元を赤くして。
「家と揉めて、縁まで切るって言って……気持ちが収まらないのは分かる。でも今日は私の婚約パーティーなの。邪魔だけは、しないでくれる?」
直子が鼻で笑う。視線は冷たく、あからさまな軽蔑を含む。
「邪魔しに来たって、どの目が言ってるの?」
紀子が間髪入れず詰め寄った。
「ここはあんたが来る場所じゃない。吉崎直子。自分で帰る? それとも警備に引きずり出させる?」
「ママ、いいの……」
由紀は大らかな顔を作って見せる。
「お姉ちゃんは田舎育ちで、こういう場に慣れてないだけだし。初めてで嬉しいのかもしれないから、居させてあげようよ。……でも」
首を傾げ、わざとらしく。
「招待状もないのに、どうやって入ったの? この場のどなたか、お金持ちに取り入って一緒に入れてもらったの?」
その視線が、年配の富豪たちをそれとなく撫でる。
途端に、ひそひそ声が立った。
「たしかに、招待状は?」
「そのドレスも……男に買わせたんじゃないの。あの子にそんな金あるわけ」
直子は怒りもしない。焦りもしない。
遊ぶような目で由紀を見つめ、さらりと言う。
「確かに、見たことのない世界はあるわ。例えば――あなたの首のそれとか」
由紀は反射的に首元へ手をやり、背筋を伸ばした。
「これはQueen先生の限定品よ。500万。カード切るところ、あなたも見たでしょ? ママが婚約祝いに買ってくれたの」
そして馴れ馴れしく直子の手を取る。
「お姉ちゃんがどうしても欲しいなら、あとで貸してあげる。……だって、この先あなたが触れる機会、きっとないもの」
周囲に、くすくすと笑いが漏れる。侮蔑の色を含んで。
直子が小さく笑った。
「500万で偽物を掴まされて、よくそんなに得意になれるね」
空気が凍る。
ざわ、と息を呑む音。
紀子の顔色が変わった。
「何を根も葉もない! 正規店で買ったのよ。偽物なわけ――」
直子は相手にする気もないように、片手を軽く上げた。
人垣の外から、一人の男が入ってくる。
平村俊。黒いスーツに身を包み、女たらしの色気を隠しきれない長身が、堂々と歩く。
だが直子の前に来た瞬間、その態度だけが変わった。恭しく、忠実に。
彼はギフトボックスを差し出す。
「頼まれていた品です」
箱を見た客たちの顔が、一斉に引きつった。
そこには、端正で流れるような「Q」のロゴ。Queenの専用印。
直子が顎で示す。開けろ、と。
平村俊が蓋を開く。
次の瞬間。
由紀の首元とまったく同じ意匠――なのに、輝きが段違い。星の海を凝縮したような本物の煌めきが、そこに鎮座していた。
