第6章
誰もが一瞬で気づいた。
――これこそが『星河』。これこそが、本物の『星河』だ。
そのネックレスと並べられた途端、吉崎由紀の首元のものは露店の安物みたいに見えてしまい、質感がみるみるうちに落ちていった。
吉崎由紀の頬から、血の気がすうっと引いていく。
「ありえない……」彼女は呟くように言った。「どうして……どうして本物の『星河』なのよ。だって、私は500万払って……」
「500万で買ったのは、店頭に置いてある展示用の高級サンプルってだけよ」
吉崎直子が言葉を遮り、口元だけで笑った。
「本物の『星河』は数千万。数百万で手に入るわけないでしょ。少しは頭を使ったら?」
その一言は、鈴村紀子にまで一緒くたに嘲笑された形になった。
ざわめきが戻る。
「そりゃそうだ。Queenの作品なんて基本、値札が数千万だろ。500万で買えるわけねえ」
「吉崎由紀、偽物で場を取り繕ったんだな」
羽島喜太郎の顔色が曇り、眉間に皺が寄る。苛立ちを隠しもせず吉崎由紀を見た。
「……どういうことだ、由紀」
「あなたが正規品を買えないかもしれないと思って、私は本物の『星河』を婚約の贈り物に持ってきたの」
吉崎直子は淡々と言い切る。
「なのに『世間知らず』だの『見たことがない』だの言っておいて、Queenの本物が見分けられないの?」
吉崎直子は、吉崎由紀が凍りついたまま晒している惨めさを、値踏みするように眺めていた。瞳の奥にあるのは、隠しもしない嘲り。
吉崎由紀は危うく舌を噛みそうになりながら叫ぶ。
「見分けられないんじゃない! あれは売り場の店員が……!」
「もういいわ」
またしても吉崎直子が遮り、手にしていた箱を軽く持ち上げた。
「この『星河』は私のデザイン。自分の作品の真贋すら見抜けない人に渡すつもりはない」
その場の空気が、一斉に凍った。
「……え? いま、なんて」
「あなたが……Queen?」
「いや、そんなはず……こんな若い子が?」
吉崎由紀の顔は白くなっていく。
世界トップクラスのジュエリーデザイナー、Queen。
あらゆるデザイナーが憧れ、崇め奉りたがる『伝説』だ。名家の令嬢も貴婦人も、彼女の作品を手に入れるためなら正気を失う。
――そんなQueenが、田舎から出てきた吉崎直子?
ありえない。
吉崎由紀は声を荒らげた。
「あなたがQueenなわけない! 嘘よ!」
吉崎直子は平村俊の手から書類を数枚受け取る。国際宝飾協会の鑑定書。さらに、『星河』を設計した際の手稿。
初稿から決定稿まで、流れが一目で分かる。しかも、彼女の手元の『星河』と細部まで寸分違わない。
手稿の隅にはサインがあった。癖のある、強烈な個性を帯びた署名。
誰もが一目で分かった。――Queenのサインだ。
会場は再び騒然となる。
ここまで揃っていて、吉崎直子がQueenではないと否定する方が無理だった。
鈴村紀子も言葉を失いかけながら、それでも食い下がる。
「由紀が羽島喜太郎さんと結婚するのが妬ましいのね! 帰ってきたばかりで由紀のほうが幸せそうだから、こんなものを用意して目立とうとしてるんでしょう!」
吉崎直子の目は冷ややかで、まるで滑稽な芝居を見ているみたいだった。
「国際宝飾協会の公式印もある。手稿の制作タイムラインも提出できる。証拠は揃ってる」
淡い声が、容赦なく切り込む。
「あなたは何を根拠に私を疑うの?」
そして、視線だけを鋭く変える。
「それに――盗作したのは、あなたの娘でしょう。数日前、私のデザイン画を盗んで発表した『宇宙之心』。あの元のデザインは、私のところから出たものよ」
一瞬の沈黙ののち、場が爆発した。
「え……吉崎由紀がQueenの手稿を盗んだって?」
「そういえば、宇宙之心ってQueenの作風に似てたよな……」
「吉崎家が小さい頃から育ててきたのに、田舎育ちの吉崎直子に勝てなくて盗作? それは……」
吉崎由紀の身体がふらりと揺れた。今すぐ床に穴があれば、潜り込みたい。
真っ青な顔で、彼女は鈴村紀子の腕に爪を立てるようにしがみつく。
「私のネックレスは本物なの! ママ、あの人に言わせないで……! 変に光ってるからって、本物って決まるわけじゃないじゃない!」
吉崎直子が手を上げた。
「そう言うと思った。鑑定士を二人、連れてきたわ」
言い終えるより早く、二人の男がすっと前へ出てくる。
ざわり――と空気が変わった。
宝飾業界で名の知れた鑑定の権威。彼らの目を誤魔化せる宝飾品など、存在しない。
その二人が現れた瞬間、吉崎由紀は息を呑んだ。
鑑定士は、吉崎由紀にネックレスを外させることすらしない。首元を一瞥しただけで、露骨に顔をしかめた。
「ガラスです」
冷淡な声。
「本物と並べること自体が失礼。高精度の模造品――贋物ですね」
誰も、もう言い返さなかった。
向けられる視線だけが、吉崎由紀を刺す。軽蔑と、侮蔑。
羽島喜太郎は、屈辱で耳の奥が熱くなるのを感じた。
生まれてこの方、持ち上げられて生きてきた。こんなふうに見世物にされる屈辱など、味わったことがない。
彼は冷たく吉崎由紀の手を振り払った。
「……婚約宴を、なめてるのか。これだけ有名な作品で、偽物を平気で身につけるなんて」
「違うの……違うのよ……!」
吉崎由紀は崩れ落ちそうになりながら、必死に弁解しようとする。
吉崎広峰と鈴村紀子も慌てて取り繕った。
「羽島様、誤解です! 我々が由紀に贋物を着けさせて婚約宴に出させるなど、ありえません! これは……本当に、手違いで……!」
吉崎広峰は吉崎直子を睨み、奥歯を噛みしめる。目に浮かぶのは後悔だった。
――こうなるくらいなら、あいつをきちんと閉じ込めておくべきだった。婚約宴が終わるまで、外へ出さなければよかった。
まさか吉崎直子が、何の前触れもなくこんな切り札を持ち込み、婚約宴を台無しにするとは。
由紀が羽島家に見限られたら、今後の商売はどうなる。
吉崎広峰の目が険しくなる。
「来い!」
声を荒げた。
「婚約宴を故意に荒らした吉崎直子を、外へつまみ出せ!」
「誰が、させるか!」
鐘のように響く、太い声。
振り向けば、羽島お爺さんが立っていた。
その瞬間、誰もが息を呑み、声を失う。
吉崎広峰は青くなり、手を擦り合わせて前へ出かけたが――羽島お爺さんは顎をわずかに上げ、視線すら与えない。
「吉崎さんは、わしが招いた大切な客人だ。彼女に無礼を働く者は、羽島家を敵に回すと思え」
そして吉崎由紀へ、鋭い一瞥。
「婚約宴を壊したのは、どちらだ。贋物を身につけておいて、暴かれる覚悟もないのか。めでたい日に醜態を晒しおって」
羽島お爺さんに切り捨てられた瞬間、吉崎家の三人は足元から崩れ落ちるような心地がした。顔は血の気を失い、息をすることすら怖い。
周囲の視線はいっそう露骨になる。
とりわけ吉崎由紀へ向けられる目には、隠しきれない嘲笑が混じった。
吉崎由紀は全身を震わせた。
だが、ここで完全に折れて逃げ出せば――吉崎直子の思い通りだ。
彼女は震える指で、ゆっくりとネックレスを外した。
瞳の奥に一瞬だけ怨毒が閃き、すぐに申し訳なさそうな色へ塗り替えられる。
「……私が、買い物を間違えました。500万で贋物を買ってしまって……ごめんなさい。皆さんの楽しい時間を、台無しにしてしまって」
羽島喜太郎は眉をきつく寄せた。
この瞬間、彼は吉崎由紀を置き去りにして、この場を去りたい衝動に駆られていた。
