第7章
羽島喜太郎は、祖父の視線に触れた瞬間、これは絶対に出来ないと悟った。
羽島家は、ここで追い打ちをかけてはならない。たかが偽物ひとつで、もともと縁談の相手として迎えるはずだった女を切り捨てるなど――それは品がなく、器も小さい。
喜太郎は深く息を吸い込み、露骨に気乗りしない顔のまま吉崎由紀の手をぐいと引き寄せた。だが視線だけは、終始、吉崎直子に貼りついたままだった。
比べれば比べるほど、直子の良さが際立つ。
偽物を買う――そんな真似は、吉崎直子のような「金なんてどうでもいい」とでも言いたげに、喜太郎がいくら高級ブランドの宝飾を贈っても見向きもしなかった女が、進んでやることではない。
今ここで妻にするのが、吉崎直子だったら。
同じ吉崎なのに、どうしてここまで違う。
吉崎直子は最後まで喜太郎に一度も目を向けず、羽島の祖父が「どうぞ」と手で促すと、そのまま隅の席へ向かって腰を下ろした。
婚約披露の場でこんな騒ぎが起きてしまえば、場の熱もすっかり冷める。
祖父がいる以上、客は好き勝手に噂するわけにもいかない。何事もなかったふりをして、羽島家の顔を立てるしかなかった。
儀式が終わるや否や、招待客は足早に引き上げていき、会場に残ったのは、吉崎家と羽島家の身内だけになった。
平村俊が寄ってきて、声を落とす。
「帰るか?」
直子は立ち上がり、羽島の祖父へ挨拶して帰ろうとした。
見世物はもう終わりだ。
今日を境に、吉崎由紀は、あれほど自慢げに出入りしていた令嬢グループで二度と威張れない。
痛快。
――そのとき。
祖父へ別れを告げようと口を開きかけた直子の耳に、きいっと甲高いブレーキ音が飛び込んだ。
外には、限定モデルのロールスロイスが停まっている。
直子は目を細める。
世界で3台しかないクラスの車だ。乗っているのは、ただ者ではない。
好奇心がふっと芽を出した次の瞬間、運転手が恭しく後部座席のドアを開けた。
現れたのは、一人の男。
一瞬で、空気が凍る。
息を呑む音すら、聞こえそうだった。
とりわけ吉崎由紀は、目を見開いたまま動けない。黒いスーツに身を包み、気品と圧をまとって近づくその男を、釘付けにして見つめていた。
背は優に190cm近い。完璧な造形の顔。動くたび、鋭利な気配が切っ先みたいに走る。
由紀の呼吸が早まる。
「……だ、誰……?」
「俺の叔父だ」
羽島喜太郎が声を落とし、羽島浩介を見る目に、自然と畏れが混じった。
「羽島家の後継者で、祖父の末っ子。若いのに、もう家の事業を全部握ってる」
直子はその説明を聞き流しながら、羽島浩介へ視線を向けた。
すると浩介が、何か感じたようにこちらを見た。目が合う。ほんの一秒。
次の瞬間には、何事もなかったかのように視線が滑り落ちる。
浩介は会場を見渡し、淡々と言った。
「婚約の席にしちゃ、やけに寂しいな。十分しか遅れてないが」
喜太郎が唇を尖らせ、由紀を見る。
由紀は悔しげに唇を噛み、すぐに声を作った。
「浩介叔父様、これは本当に、私のせいじゃありません」
距離の近い呼び方で懐に入る。
「わざと偽物を買ったわけじゃないんです。ネックレスが偽物だって言われて、私だって恥ずかしかった……でも、あれはお店の問題で」
「お店が、私に偽物を売ったんです……」
言い終える頃には、しゃくり上げるように泣き出していた。いかにも可哀想な顔。
平村俊が小さく白目を剥く。
「……きっつ。あの手のやつ、まだ効くと思ってんのか」
だが次の瞬間、浩介は由紀を冷たく一瞥した。
「高額のネックレスを買うのに、鑑定にかけないのか? 宝飾のデザインをしてるんだろう。Queenの作品がどれだけ手に入らないかも知ってるはずだ。500万で買って、疑いもしなかった?」
由紀の顔が一気に真っ赤になる。言葉を失って固まった。
浩介が真正面から刺してくるなど、想定外だったのだろう。由紀は羞恥と怒りで震えながら、助けを求めるように喜太郎を見た。
――喜太郎は腕を組んだまま、まるで聞こえていないように立っているだけ。
由紀は完全に逃げ場をなくし、顔がトマトみたいに赤くなった。
その様子を見ていた直子は、ふっと可笑しくなって、思わず声を漏らして笑ってしまった。
吉崎家では、由紀のそういう振る舞いが妙に通っていた。あそこまで露骨に返り討ちに遭うのは、初めて見た。
そして、その笑いが――浩介の注意を、さらに引き寄せた。
浩介が改めて直子を見る。
どこかで見た顔だ、と目がわずかに細くなる。
前にモールで会った、あの女の子。
瞳の奥に、愉しむような光が差した。
直子は気にも留めず、羽島の祖父へ一言挨拶をして、そのまま会場を後にした。
喜太郎は反射的に一歩踏み出し、呼び止めようとした。
それを由紀が見逃すはずがない。悔しさに奥歯を噛みしめる。
自分は今日、恥を晒し尽くした。
なのに吉崎直子だけが、スポットライトを独り占めした。
羽島の祖父も露骨に直子を買っていたし、周囲の目の中で直子は「伝説のデザイナーQueen」になっている。
田舎から出てきた女に、自分が負ける?
ありえない。
その夜、あるニュースが突然トレンド上位に躍り出た。
投稿数のわりに不自然に順位が高い。買ったのが丸わかりだ。だが野次馬が群がり始めると、話題はじわじわ本物の熱を帯びていく。
内容はこうだ。
今日Queenだと名乗った吉崎直子は、実はただの偽者。養妹が羽島家の若様に嫁ぐのが妬ましくて、嘘の肩書で目立とうとしただけ。招待もされていない婚約の場に現れたのは、怪しいコネで大物に連れ込まれたから――。
Queenはネットで知名度が高い。熱心なファンも多い。
トレンド入りした途端、ファンが先に爆発した。
深夜。ベッドに入った直子のスマホが鳴る。平村俊からだ。
「みんな、お前が偽者だって騒いでる。ボス、どうする?」
直子は通話を受けた時点で、すでにトレンドの内容を確認していた。指先で画面を滑らせると、コメント欄はファンの糾弾で埋まっている。
直子は口元をわずかに上げた。
「スタジオ名義で声明を出して」
「了解」
平村俊は即座に察した。
ほどなくして、スタジオの公式アカウントに声明動画が投稿される。
動画には、吉崎直子がデザイン画を描き上げていく過程。本人がしっかり映り、背後にはQueen名義で獲得した国際コンテストのトロフィーが並ぶ。さらに、国際宝飾協会の認定を示す首席の身分証も。
偽者説は、瞬く間に崩れ去った。
空気は反転し、熱狂的なファンが投稿の下で叫び始める。
「Queenってこんなに若くて綺麗だったのか!」
「可愛すぎる! 推しがこんな若いなんて聞いてない!」
称賛が雪崩のように押し寄せる。
そしてスタジオは、続けて一枚の比較画像を投下した。
1枚目は、吉崎直子の『宇宙の心』のデザイン原稿。
もう1枚は、酷似率9割。タイトルも同じ『宇宙の心』。吉崎由紀がコンテストに提出した作品だった。
投稿された瞬間、由紀の盗作が決定的になる。
ネットは騒然。嘲笑と罵倒が一気に噴き上がった。
同じ頃、吉崎家。
吉崎由紀のもとに、金頂賞の主催から電話が入る。
受話口の声は冷えきっていた。
「盗作の疑いがあるため、当方の審査は続行できません。よって、あなたの参加資格を取り消します」
「ま、待って――」
言い終える前に、通話は切れた。
直後から、各メディアの電話が雪崩れ込む。
「姉の作品を盗作したんですか? 自力ではあのレベルのデザインが描けないと?」
「盗作について、どう説明しますか?」
「吉崎直子を中傷する記事、あなたがトレンドに上げたんですか?」
由紀はベッドへ崩れ落ち、震える手でスマホを弄り、慌てて機内モードに切り替える。
そして、喉が裂けるほど叫んだ。
「吉崎直子……絶対に許さない! 覚えてなさい!」
