第8章
Queenの正体が露見し、吉崎由紀の盗作騒動が一晩じゅう燃え上がった。世間は蜂の巣をつついたような大騒ぎだ。
けれど吉崎直子は、別荘で何事もなかったかのように眠っていた。外の喧騒など、耳に入れる価値もない。
恥をかいたのは吉崎由紀。火の粉をかぶったのは吉崎家。
彼女に喧嘩を売れば、こうなる。これから先、吉崎家に情けをかけるつもりはない。
翌日――。
朝6時。薄い霧が、広い敷地全体をふわりと包んでいる。
直子はトレーニングウェアに身を包み、ヘッドホンをかけたまま、別荘地の並木道を走っていた。すでに8km。なのに呼吸は乱れず、頬も赤らまない。
実戦のための鍛錬に比べれば、この程度――水を飲むより楽だ。
ヘッドホン越しのピアノ曲に身を預け、ひと回りして自宅の門へ戻った直子は、ふと足を緩める。
隣の別荘の前に、いつの間にか車が停まっていた。
運転手が恭しく後部座席のドアを開ける。
現れたのは、黒い影。
彫りの深い眉目。黒いスーツが、広い肩と細い腰を際立たせる。気だるげで、どこか放埓。それでいて生まれつきの品が滲む。
羽島浩介。
直子は思わず足を止め、少し離れたところで立ち尽くした。
羽島のお爺さんの別荘へ視線をやり、事情を察する。踵を返そうとした、その瞬間――浩介が何かを感じ取ったようにこちらを見た。
目が合う。
浩介は気のないふうに口角を上げ、はっきりとした値踏みの視線を向けてくる。
「吉崎さん、こんな早くから?」
直子はヘッドホンを首へずらし、淡々と頷いた。
「羽島さん」
浩介のほうから声をかけてきたことに、少しだけ意外だった。
昨夜の婚約パーティーで、彼と自分はほぼ無関係だった。なのに今さら話しかけてくる――妙だ。
直子は挨拶だけして立ち去ろうとする。が、浩介は続けて言った。
「父がね。君はピアノが上手いって。父にとっては、いわゆる忘年の友だそうだ。ここで一人暮らしだし、寂しいらしい。君みたいな友達ができて良かったって」
言いながら、浩介はいつの間にか直子の目の前まで歩み寄っていた。
朝の光の中、直子の肌は白さに血色が混じって、鮮やかに映える。だが本来なら無邪気に見えるはずの瞳だけが、深く、静かで、年齢に似合わない落ち着きを宿していた。
浩介の興味が、さらに濃くなる。
直子は表情を変えずに言う。
「買いかぶりです。適当に弾いてるだけで。羽島お爺さんが気に入ってくださっただけですし。もし他にご用がないなら――」
「昨日のあれ、本当に親切心で婚約の贈り物を届けに行っただけ?」
直子は一瞬、言葉を失った。
「……何の話です?」
浩介は笑っているようで笑っていない目を細める。
「昨日の経緯は聞いた。喜太郎がね、君とは前から知り合いだって言ってた。婚約パーティーを潰しに行ったのは、わざと彼を狙って?」
あまりに直球の探り。
直子の胸の奥が、じわりと不快に擦れる。浩介の意図が読めない。甥の婚事を壊されたくないのか。それとも、別の思惑があるのか。
直子は声の温度を落とした。
「知り合い、ってほどじゃありません」
「じゃあ、どういう関係? 話してくれない?」
浩介は重ねてくる。
直子はふっと笑った。けれど瞳は冷えている。
「私は田舎から出てきたただの田舎者です。小さい頃から何も知らずに育ってきました。羽島家の若様みたいな方と、そんな人脈ができるはずないでしょう。考えすぎです。知りません」
浩介は、直子が頑なに認めないのを見ても、追及して潰しにはかからない。
片手をポケットに突っ込み、気だるげに言う。
「父は君を気に入ってる。普段は引きこもりみたいに静かに暮らしてて、誰とも関わらない人なのに、君のことを何度も口にした。よかったら、もっと顔を出してやって」
――やっぱり。
直子の警戒が一段上がる。短い言葉の端々に、試すような棘がある。まるで、こちらが羽島喜太郎と接触するのを怖がっているみたいだ。
直子は礼儀だけ残して頷く。
「機会があれば」
浩介が何か言いかけた、その瞬間。
直子が先に切った。
「運動のあとで汗だくなんです。気分もよくないので。羽島さん、他に用がないなら、戻ってシャワーを浴びます」
浩介の返事を待たず、直子はくるりと背を向けて歩き出した。背後から洪水か猛獣でも追ってくるみたいに。
浩介は少し眉を上げ――次の瞬間、思わず笑いが漏れた。
京市の女は例外なく自分に群がる。こんなふうに露骨に距離を取る女など、初めてだ。
「旦那様、どうなさいました?」
運転手が不思議そうに尋ねる。
浩介は我に返り、面白がるような笑みを唇に貼りつけた。
「いや、何でもない。戻ろう」
直子も別荘へ戻った。
玄関を入ったところで執事が水を差し出してくる。
「先ほどの方は羽島さんでございましたね?」
直子はキャップのつばを持ち上げもせず、ボトルの蓋をひねってひと口飲む。
「うん。どうしたの?」
執事は驚いたように目を見開いた。
「羽島さんが女性とあれほど長くお話しになるのを初めて拝見しました。噂では、羽島家のあの方は女嫌いで、ほとんど女性と関わらないと……」
直子は「ふうん」とだけ返し、眉を上げる。
「じゃあ、私の光栄ってこと?」
執事は慌てて手を振る。
「いえいえ、とんでもございません」
直子はそれ以上取り合わず、そのまま二階へ上がって部屋へ入った。
シャワーを浴びようとした、その時。
――ドン、と鈍い通知音。
直子の瞳が鋭くなる。
ハッカー用アカウントの管理画面。動きがあった。
直子は椅子へ座り、すぐログインする。すると、そこには目を疑うような額の懸賞金が入っていた。
しかも送金の備考欄には、『ハッカー零』宛てではなく――堂々と、彼女の本名が記されていた。
吉崎直子。
彼女は長いあいだ身元を隠し通してきた。一度たりとも正体を割られたことはない。
なのに、なぜ――本名を?
直子の目に、剥き出しの警戒が冷たく浮かぶ。送金元アカウントを辿り、IPを引きずり出そうとした瞬間――。
画面が、ぴくり、ぴくり、と不自然に点滅した。
次いで、無秩序なコードが雪崩のように走り出す。
さらに二度ほど瞬いて――ぷつり。
モニターが真っ黒に落ちた。
直子は柳眉をわずかに吊り上げる。
やるじゃない。私の端末に喧嘩を売る?
闘志が、芯から煽られる。綺麗な杏の瞳が、じわりじわりと冷えていく。
その時――。
再び画面が点滅し、ゆっくりと文字が浮かび上がった。
『もうすぐ君を見つける』
……これ。
彼なのか?
