第1章 私の子供を堕ろさせたのに、彼女とは子供を授かった
「胃がんの末期です。腹腔内リンパ節にも転移が見られます。正直、楽観はできません」
仁愛病院のVIP診察室。
相澤永知は金縁の眼鏡を外し、整った眉間に重い影を落とした。
向かいのソファに座る女は、痩せすぎて顔立ちまで変わって見える。
その姿を目にしただけで、胸の奥がずしりと塞がった。
「茜。検査結果が出た。悪性腫瘍だ」
「今すぐ抗がん剤治療を始めて、そのあと手術まで持ち込めれば、5年生存率は……」
冷えきった診断書は、日向茜の指先の中でくしゃりと歪んだ。
最後には鞄へ押し込み、革のショルダーストラップをきつく握りしめる。小さな顔は血の気を失っているのに、表情だけはひどく静かだった。
「先輩。治療しなかったら、私はあとどれくらい生きられますか?」
相澤永知の呼吸が止まる。
「……3か月から半年だ。個人差はある。でも君の状態は、今すぐ治療を始めないと、癌の拡がりを止められない!」
「結構です」
日向茜は丁寧に立ち上がり、深々と頭を下げた。
「私には耐えられません。それに、お金もありません」
「先輩、どうか秘密にしてください。誰にも知られたくないんです」
相澤永知はやるせなく息を吐いた。
茜の気性はよく知っている。いくら周りが言っても、いったん決めたら曲げない。
「わかった。口外しない」
「でも……君は結婚している。ご主人には――」
その男の話が出た瞬間、日向茜の瞳から最後のかすかな光まで消えた。
「先輩、ありがとうございました。用事がありますので、失礼します」
逃げるように背を向けて出ていく。
薄い背中は、風でも吹けば折れてしまいそうだった。
相澤永知はその後ろ姿を見送り、首を振ってため息をつく。
学院でいちばん眩しかった天才が、結婚しただけでここまで落ちるなんて。
本当に……それでよかったのか。
――プラチナ苑。
日向茜が重たい彫刻扉を押し開けても、家のぬくもりはどこにもなかった。
迎えたのは、骨の髄まで沁みる冷えきった静寂だけ。
広いリビングには、シャンデリアの淡い光が降っている。
高価な調度品さえ、どこかひやりと冷たく見えた。
その冷たい光の中心に、真田修一が座っている。
仕立てのいい黒のスーツ。脚を組み、姿勢はどこまでも優雅で、気品に満ちていた。
長い指のあいだには、半分ほど燃えた煙草。赤い火が暗がりの中でちらちらと明滅している。
日向茜は胸の内で小さく首をかしげた。
ひと月に一度会えるかどうかの男が、どうして今日に限って帰っているのか。
真田修一は彼女を見ると、わずかに瞼を上げた。
深い眼差しのまま立ち上がり、まっすぐこちらへ歩いてくる。
日向茜は反射的に一歩下がった。
だが次の瞬間、手首を掴まれる。
馴染んだ冷たい気配に包まれ、息が詰まった。
そのまま腰をさらわれ、身体がふわりと浮く。
日向茜の頭は真っ白になった。
半年以上、彼は彼女に触れもしなかった。
なのに、どうして今日は――。
主寝室の大きなベッドに投げ出された、その瞬間。
死にきったはずの心の底で、愚かで哀れな火種が、かすかに灯った。
もしかして……まだ、私に少しは情があるの?
そのわずかな希望が、日向茜から抵抗する力を奪った。
キスはない。前戯もない。
服は引き裂くように剥がされ、乱暴に貫かれる。愛しむような熱ではなく、奪い、罰するような激しさだった。
日向茜は絶望の中で目を閉じた。
胃をえぐる痛みと、胸の奥の鈍痛が重なり合い、意識が遠のきそうになる。
どれほど時間が経ったのか。
やがてすべてが静まった。
日向茜は乱れたシーツの中で身を縮めていた。全身には生々しい痕が散り、身体も心もひりつくように痛む。
隣の男は、もう離れていた。未練のかけらひとつ残さずに。
ほどなくして、浴室からざあざあと水の音が響いてくる。
しばらくして、真田修一が腰にバスタオルを巻いたまま出てきた。
棚から一枚の書類を取り出し、ベッドへ放る。
白い紙は、日向茜のむき出しの脚のそばに落ちた。
離婚協議書。
白地に並ぶ黒い文字が、ひどく目に刺さる。
「署名しろ」
情のぬくもりをひとかけらも含まない声。
さっきまで情事の余韻が残っていた部屋だからこそ、なおさら残酷だった。
「二度は言わせるな」
さっき胸の奥で灯ったばかりの希望は、その一言で一瞬にして冷水を浴びせられ、消えた。
日向茜は、ようやく理解した。
さっきのあれは、気まぐれでもなければ、情が戻ったわけでもない。
日向茜は必死に身を起こし、その協議書を掴んだ。
脳裏をよぎるのは診断書。
相澤永知の重苦しい表情。
そして、あの残酷な「3か月」。
人生の残り時間を、こんなみじめな形で切り捨てられて終わるのか。
「真田修一……」
自分でも滑稽で、卑しくて、情けないとわかっている期待が、ひび割れた心の底から這い上がる。
「……3か月だけ、待ってくれない?」
3か月。
多すぎも少なすぎもしない。彼女の命、そのすべて。
その言葉に、真田修一は鼻で笑った。
「日向茜。今度は何の芝居だ?」
彼は身を起こし、ゆっくりと近づいてくる。
長年彼女を溺れさせてきた深い黒の瞳に、今は欠片ほどの情もない。あるのは、凍った嘲りと嫌悪だけ。
「2年の契約結婚で、真田家から受け取った金じゃ足りなかったか?」
冷えた指先が顎をつまみ、無理やり顔を上げさせる。
「それとも、3か月あれば、まだ俺から何か掠め取れるとでも計算したか?」
言葉はひとつ残らず胸に突き刺さる。
容赦など、どこにもなかった。
「知代が戻ってくる」
真田修一は彼女を突き放し、苛立ちをにじませる。
「知代の前に、お前のその吐き気のする顔を出したくない。あいつに少しでも嫌な思いをさせたくないんだ」
知代。
林田知代。
彼の手の届かない白い花。
日向茜の顔から、さらに血の気が引いていく。
――そういうことだった。
あの人が戻ってくる。
だから、自分みたいな目障りな紛い物は、今すぐ消えろということだ。
そのとき、不意に携帯の着信音が鳴った。
真田修一が普段使う無機質なビジネス用の音ではない。柔らかく、軽やかな童謡だった。
真田修一がスマホを取り出す。
画面を見たその瞬間、冷えきっていた表情が、奇跡みたいに和らいだ。
日向茜が一度だって向けられたことのない、心の底から滲む温度。
何かに取り憑かれたように、日向茜は視線をそらし、画面を盗み見た。
たった一目で、世界がひっくり返る。
壁紙は写真だった。
遊園地を背景に、陽射しは明るい。真田修一と林田知代、そして一歳ほどの、眉目が彼によく似た男の子。三人はカメラに向かって、幸福そのもののように笑っていた。
家族写真だった。
日向茜の頭の中で、ぶん、と鈍い音が鳴った。
血が一気に頭へ昇り、次の瞬間には手足の先まで冷えきる。
一年前。妊娠を告げられたとき、胸の奥でこっそり膨らんだ喜び。
誰にも言えない、けれど確かにそこにあった小さな幸福。
そして真田修一が、無表情のまま中絶同意書を突きつけた日のことも思い出す。
『日向茜。お前に俺の子を産む資格はない』
泣きながら縋った。
膝までついて頼んだ。
返ってきたのは、部下に押さえつけられたまま手術台へ運ばれる現実だけだった。
冷たい器具が身体の奥へ入ってくる痛み。
シーツを染めた血。
それは今でも、夜ごと彼女を叩き起こす悪夢だ。
――そういうことか。
彼は、もう別の女とのあいだに子どもまで作っていた。
なんて滑稽で。
なんて残酷なのだろう。
押し寄せる憎悪と、骨まで腐らせるような絶望が、一瞬で彼女を呑み込んだ。
日向茜は真田修一を見つめる。
その瞳の光は、少しずつ、少しずつ消えていき――最後に残ったのは、燃え尽きた灰みたいな静けさだけだった。
そして、彼女は笑った。
口元が上がる。上がっていく。
涙だけが止まらず、ぼろぼろと零れ落ちた。
「……わかった」
たった一言。軽い。
けれど、その一言に彼女は人生の力をすべて使い果たした。
「離婚に同意する」
真田修一が、はっきりと目を見開いた。
泣きわめく姿も、縋りつく姿も、あるいはもっと卑劣な脅しも想定していたのだろう。
だが、こんなにもあっさり受け入れるとは思っていなかった。
「……今、何て言った?」
日向茜は、もう彼を見なかった。
ゆっくりとローテーブルへ歩き、協議書の苛烈な条項など目にも入れず、置かれていた万年筆を手に取る。
ペン先が紙を擦る、さらさらという音。
一画一画に力を込めて、自分の名を書いた。
書き終えると、ペンを放り出す。
「真田修一」
涙に濡れた青白い顔に、初めて宿る静かな決意。
「明日の朝9時、市役所で」
