第2章 母の命を救う心臓は、彼に奪われた!

闇は、どこまでも濃く広がっていた。

真田修一は去った。部屋に残っていた最後の体温まで、根こそぎ奪って。

空気には、彼の身にまとっていた澄んだコロンの香りがまだ残っている。行為のあとに漂う湿った匂いと絡み合い、吐き気を催すほど皮肉な臭気に変わっていた。

日向茜は大きなベッドの上で身体を丸める。胃の奥がきりきりと締め付けられ、冷や汗が薄いネグリジェをじわりと濡らしていく。

そのとき、枕元のスマホが不意に鳴った。

見知らぬ番号。

指先で通話を取ると、甘く弾む女声が耳に飛び込んでくる。

「日向茜さまでいらっしゃいますか? こちら『エンジェル・ベビー』マタニティ&ベビー専門カスタマイズセンターでございます」

その一言で、日向茜の頭の中が真っ白になった。

相手は気づかず、明るい調子のまま続ける。

「1年前に、赤ちゃん用の無垢材のベビーベッドをご注文いただいておりますので、アフターフォローのお電話を差し上げました。赤ちゃん、いまも問題なくお使いでしょうか? 睡眠の具合はいかがですか?」

赤ちゃん――。

胎動をきちんと感じる間もなく、父親の手で……握り潰された子。

スマホを握る手が激しく震え、息の仕方さえ忘れる。

「日向さん? お聞きになってますか? 電波が――」

「……死にました」

喉の奥から絞り出した声は、砕けた音になった。

電話の向こうが凍り付く。次いで、慌てた謝罪が重なる。

「た、大変失礼いたしました! 存じ上げず……!」

日向茜はそれ以上聞かず、通話を切った。スマホを乱暴に放り投げ、膝を抱えて頭を埋める。

押し殺してきた泣き声が、ついに漏れた。

獣の慟哭みたいに。

……。

翌朝。

日向茜は壊れかけた身体を引きずり、病院へ向かった。

母は今日、心臓移植手術を受ける予定だった。いまの彼女に残された唯一の願いで、灰色の人生に差し込む最後の光。

ICUの前で、主治医の長島医師が足早に現れた。顔色が、異様に硬い。

胸の奥が嫌な形で縮む。

「長島先生……母の手術は……」

長島医師は重く息を吐き、言いにくそうに告げた。

「日向嬢……申し訳ありません。適合した心臓ですが、提供者のご家族が直前になって、別の患者さんへ……」

どん、と世界が崩れた。

「……何を言ってるんですか」

日向茜は医師の腕を掴む。指が白くなるほど力が入る。

「通知も出てる! 家族もサインした! そんな簡単に、他人に渡るわけ――!」

「落ち着いてください」長島医師は痛みに顔を歪めながらも、低く言った。

「決定権はご家族にあります。病院は……実行する側です」

「決定? 昨日まで決まってたのに、今日になって覆るんですか?」

声が尖り、目が赤く滲む。

「誰が奪ったんです? お金ですか?! もっと積んだ人がいたから、母の命を玩具みたいに――!」

廊下の視線が集まる。

長島医師は困りきった表情で声を落とした。

「相手の方も緊急なんです。子どもで……どうかご理解を」

「提供者側の判断には……病院として介入できません。お母さまは、待つしか……」

日向茜は、乾いた笑いを漏らした。泣くより酷い笑い。

「待つ?」

「どれだけ? 一日? 一時間? それとも次の一秒?」

「先着順って、最低限の道理じゃないんですか。同じ命なのに、上も下もあるんですか」

長島医師は答えられず、沈黙した。

その瞬間、胃の痛みが爆発した。臓腑を引き裂かれるような激痛。

冷や汗が背中を濡らし、膝が崩れそうになる。

意識が散る寸前、スマホの着信が地獄の縁から引き戻した。

真田修一――。

日向茜は震えを抑え、通話を取る。

電話の向こうから、不機嫌な声が叩きつけられる。

「9時だ。どこにいる」

「真田修一……」日向茜は息を詰め、血の味のする言葉を紡いだ。

「私……病院に……母の手術が……だめになって……」

「は」

嘲りの笑いが混じる。

「日向茜、またその手か。今度は母親が死にそうだ? それともお前が死にそうだ?」

「離婚したくないからって、底が抜けてきたな」

「嘘じゃない!」日向茜の声が崩れた。

最後の藁に縋るみたいに、泣き声を滲ませる。

「本当なの! 母の心臓が……奪われたの! 真田修一……お願い……!」

尊厳を投げ捨てる。

「あなたならどうにかできるでしょ……人脈があるでしょ? 一言で……助けて……」

「母を助けてくれるなら、何でもする! すぐ署名する! すぐ離婚する! 私、身一つで出ていく! 二度とあなたの前に現れない……!」

電話の向こうが、わずかに沈黙した。

その短い静けさが、馬鹿げた期待を生む。

だが返ってきたのは、氷みたいな戯れ言。

「助ける? 日向茜、お前、自分が何だと思ってる。俺に頼む資格があるのか」

「……資格は、ない……」涙が溢れる。

「でも、命なの……母は何も――」

「無辜?」

その二文字に、骨まで凍る憎悪が宿っていた。

「笑わせるな。俺がどうして殺人犯の母親を助ける必要がある」

日向茜は雷に打たれたように硬直する。

「……殺人犯? 何を言ってるの……」

真田修一の声が一気に凶暴になる。

「その汚い声で俺を煩わせるな」

「聞きたいなら答えてやる」

一語一語、残酷に。

「お前の母親なんて、さっさと死ねばいい」

――ツー、ツー、ツー。

通話は切れた。

日向茜は冷たい壁に寄りかかり、ずるずると崩れ落ちる。魂が、少しずつ抜かれていくみたいに。

なぜ。

なぜ彼は、あんな言葉を――。

なぜそこまで、私と母を憎むのか。

闇に落ち切る寸前、ポケットのスマホが小さく震えた。

SMS。知らない番号。

震える指で開く。

【あなたの母親の命の心臓を横取りしたのは、真田修一だ】

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