第3章 自ら認める
胃の底がいきなり激しくかき回され、鉄錆びた甘さの混じる液体が、抑えきれず喉元まで突き上がってきた。
「ぷっ——」
鮮血がぶわっと噴き出す。日向茜の視界がぐらりと反転し、世界が乱暴に揺れて——そのまま真っ黒に落ちた。
次に目を開けたとき、窓の外はもう夕暮れだった。
鼻を刺す消毒液の匂いが、ここが病院だと突きつけてくる。
ベッド脇には相澤永知。顔は陰り、周囲の空気まで重たい。
「死ぬ気か」
押し殺した怒りの奥に、どうしようもない痛みが混じった声。
「胃の大量出血だ。あと30分遅れてたら、霊安室行きだった」
日向茜はぼんやりと眼球だけを動かし、白い天井を見上げる。焦点が合わない。
もう死んでいるのに、身体だけが惰性で呼吸している——そんな感じだった。
相澤永知はその生気のない様子に、胸の内が塞がる。
新しい検査結果の紙を、苛立ちまじりにベッドサイドへ叩きつけた。
「見ろ。拡がりが想定より速い」
「日向茜、警告する。そんなふうに自分を痛めつけ続けたら、3か月どころじゃない。1か月ももたないぞ」
1か月。
日向茜の口元が、ひきつるように歪む。笑いと呼ぶには、あまりに醜い。
どうして、耐える必要がある?
母は生死の境にいて、子どもはとっくにいなくなった。
愛してきた男は、自分の手で家族ごと地獄へ突き落とした。
生きるなんて、ただ長い凌遅刑だ。
日向茜は黙ったまま手を上げ、手の甲の点滴針を引き抜いた。
じわり——ではない。血が一気に溢れ、白いテープを赤く染める。
「何して——!」
相澤永知が慌てて手を押さえる。声が裏返った。
けれど日向茜は、痛みを感じないみたいに空っぽの目で見返す。
「先輩……無駄です」
「帰らせてください」
声は軽く、漂うようで、底なしの死の静けさがあった。
その静けさに、相澤永知の心臓が握り潰される。目の縁を赤くし、初めて感情を抑えきれずに怒鳴った。
「帰る? どこへだ。日向家か? それとも真田修一のところか!」
「日向茜、目を覚ませ! あんな男、値打ちもない!」
「そんな男のために命まで捨てるのか。お前は昔どんな人間だった。学院でいちばんの天才だ。未来は——」
日向茜は、ゆっくりと首を振った。
「未来なんて……ない」
……。
街には灯りがともり、車の流れが途切れない。
日向茜は行き先もなく歩き続けた。足を運ぶたび、身体の奥が裂けるように痛む。心も同じだけ血を流していた。
気づけば、「初見」という名のカフェの前に立っている。
ネオンが、やけに優しく瞬いていた。
真田修一との初めてのデートは、ここだった。
口数は少なくても、彼の眼差しには自分だけの温度がある——そう信じていた。
全部、勘違い。
笑えるくらいの皮肉。
ガラス扉を押して入ると、身体の記憶が勝手に窓際の席へ彼女を座らせた。
外は滲む夜。
そして店内——。
少し離れたボックス席で、真田修一が銀のスプーンで苺のケーキを小さな男の子に食べさせていた。
驚くほど丁寧で、穏やかで、あたたかい横顔。彼が一度も自分に見せなかった温情。
隣には林田知代。愛おしげに父子を見つめ、幸福が根を張ったような笑みを浮かべている。
家族だった。
邪魔をしてはいけないほど、温かい家族。
美しくて、だからこそ残酷な光景。
日向茜の胸に残っていた最後の未練を、粉々に踏み潰す。
超音波検査の写真すらない子。
ICUで息を奪われかけている母。
滔天の憎しみと、骨まで侵す絶望が、ついに理性の最後の堤防を破った。
日向茜は立ち上がり、その席へ向かう。
「真田修一!」
真田修一の手が止まり、眉が鋭く寄る。
「どうしてここにいる」
苛立ちを隠しもしない声。さっきまで残っていた温もりが消え、眼の中には冷たい嫌悪だけが残る。
「聞くわ」日向茜は歯を食いしばった。
「母の心臓……奪ったのはあなたなの?」
真田修一は一拍だけ止まり、口元を薄く吊り上げる。
「だから何だ」
認めた。あまりに軽く、当然みたいに。
日向茜の身体がぐらりと揺れ、足元が危うくなる。
「……どうして」
声が震えて形にならない。
「あなたなら、別の心臓を探すこともできたでしょう。どうして母のを奪うの。あれは母が生きる唯一の希望だったのに!」
真田修一はスプーンを置き、顔を上げた。
そこには人間の温度が一切ない。
「死んでほしいからだ」
「お前が苦しむのを見たい」
空気が刺さる。
林田知代は気配を察して立ち上がり、柔らかな声を作った。
「修一、そんな言い方しないで。茜だって、お母さんのことで焦ってるだけだよ」
そして日向茜へ、申し訳なさそうな顔を貼りつける。
「茜、責めないで。修一も……太郎のためなの。太郎の心臓も悪くて、急ぎで……私たちも仕方なくて」
日向茜も真田修一も、彼女を見ない。互いの憎悪だけが、真正面からぶつかり合う。
林田知代は一瞬気まずそうにし、それでもすぐ整えた。
「太郎を先に車へ。ここ寒いし」
「私、茜と少し話すね」
真田修一は日向茜を深く見てから、子どもを抱き上げ、無言で去った。
残ったのは女が二人。
真田修一の背が見えなくなった瞬間、林田知代の柔らかさは剥がれ落ちる。
露骨な軽蔑と毒。
「日向茜。2年も真田奥様ごっこして、自分が何者かになったつもり?」
日向茜は挑発に乗らず、氷みたいな声で言い直す。
「あなたたち、他の心臓も探せたはず」
林田知代は得意げに笑い、わざと距離を詰めて耳元へ囁いた。
「そうね。実はね、もっと適合する心臓、海外から緊急空輸の話もあったの。太郎には十分」
日向茜の顔色がみるみる白くなるのを見て、林田知代は快感に目を細める。
「でも修一は即断で断った」
「あなたの母親を生かしたくないから。あなたを折りたいから」
「それだけよ。欲張りを罰するには、一番効くでしょ?」
唇を歪め、勝ち誇った声が続く。
「私の位置を奪えるなんて思わないで」
「結末は決まってる。あなたも、あなたの家族も、みんな死ぬの」
——パァン!
乾いた音がカフェに響いた。
日向茜の平手が、林田知代の頬を打ち抜いた。
全身の最後の力を、そこに叩きつけるみたいに。
林田知代は赤く腫れ上がっていく頬を押さえ、目を見開く。
「……あんた、私を叩いた?!」
日向茜の指先は震えていた。けれど瞳の奥には、これまで一度も宿らなかった決意の火が燃えている。
そのとき。
氷の怒気をまとった影が、足早に近づいてきた。
戻ってきた真田修一。
日向茜の空中に残った手へ視線を釘付けにし、陰鬱な眼に暴怒を宿していた。まるで、今にも彼女を引き裂くと言わんばかりに。
