第2章女神は彼女と共におられますように
――ベア――
ベアが両親を失ってから、そう長い時は経っていなかった。もう十年以上も前のことだ。その頃、ベアは〈ビーストリー〉という名を与えられ、アルファの側女であるレベッカに引き渡された。まだ九歳にも満たないころだった。
ベアが二十歳になった、一年半ほど前、彼女は火事で負傷した。側女はその焼けただれた顔を見ると、ベアにはついに理解できない理由で、この家に彼女をよこした。醜さを人前であからさまに晒すように。誰の目にも、誰の耳にも届く形で。それ以来、彼らはずっと、ベアを側女から送り込まれた間者だと信じてきた。
「やっぱりね。あんたが役立たずで、恥さらしのこそこそした虫けらでしかないってこと、ずっとわかってたわ!」
ジュールズはベアを無理やり立たせると、そのまま腕を乱暴につかんで引いた。図書室を飛び出し、廊下をずかずかと進みながら、ベアを後ろへ引きずっていく。腕に食い込む指は容赦なく、数日は痣が残るだろうとわかった。それでも、この先に待つものに比べれば、痣くらいどうということはなかった。
「本当です」ベアはなんとか言おうとした。だがジュールズは構わず強く引き、歩くたびに彼女の身体を前へと引きずった。「わたしは間者なんかじゃ……わたしは……」
ジュールズがある扉の前でいきなり立ち止まった瞬間、ベアは主人の背に激しくぶつかった。その勢いでジュールズ自身も扉へよろめく。振り向いたジュールズは、ありったけの力でベアの頬を打った。
「黙りなさい」
もう一度前を向いたジュールズは扉を開け、ベアをその部屋へ引きずり込んだ。扉が激しく閉まる音が、室内にびりびりと反響する。
見回してみても、ベアにはこの部屋へ入った記憶がなかった。ここは「入ってはいけない」部屋だった。そして自分でも止められないまま、呼吸が浅く、速くなっていく。こんな場所に入っていいはずがない。ここにいてはいけない。もしヴィスカ様にここで見つかったら、自分は死ぬ。
「何をしている、ジュールズ。今朝はもう、これ以上神経をすり減らしたくないのだが」
ベアの血が凍りついた。耳が聞き違えたのではないかと確かめるために顔を上げることすらできない。ヴィスカ様の声だった。ここは、彼の執務室なのだ。
「この醜いビーストが、わたしたちがサヴォンヌと話しているあいだ、図書室に隠れていたのです」
ヴィスカの深いため息が聞こえた。ベアは一瞬だけ目を上げ、彼の狼が苛立っているのを見て、すぐにまた頭を垂れ、その場に崩れ落ちた。腕はなおもジュールズに強くつかまれたままで、ぐいと上へ引かれたが、そんなことはどうでもよかった。彼の狼に、従順だと示さなければならない。できるなら、どうかと乞わなければ。自分を救ってくれるのはあれだけだ。ヴィスカから彼女を庇うように現れ、いつだってやさしくしてくれたのは、あの狼だけだった。
残っていたわずかな勇気をかき集め、ヴィスカが近づいてくるあいだに、ベアは必死に懇願し始めた。
「ほ、本当です……ご主人様……本当に……わたし、し、しおれた薔薇を取り替えていて……そ、それが落ちて……棘が刺さって……ほら……」
勇気は少しずつ湧いてきたが、こぼれ始めた涙だけは止められなかった。彼女は手を持ち上げ、指を伝って乾いた血の跡を見せる。
「お掃除をしていたんです」
声はそこでかすれた。それでもなお、言葉をつなぐ。
「本当です、ご主人様。ただ、お掃除を……していただけです。お入りになった時、わたし、怖くなって……」
そこまで言って、恐怖がまた喉を塞いだ。
背中を伝い、脇の下へ流れていく汗がわかる。肌を這うその感触に、思わず身が震え、鳥肌が立った。
「怖くなった? 何が怖かった、ビーストリー」
ヴィスカの狼は、すぐそこまで浮かび上がっていた。彼がそばに膝をつくと、その濃い匂いがふわりと彼女を包む。
「盗み聞きしていたって……思われるのが……」
唇から落ちる声は弱々しかった。身体ががたがたと震え始める。まるで一晩中、凍える寒さの中に放り出されていたかのように。こんなふうに自分の身体が勝手に裏切る感覚を覚えたのは、一昨年の冬以来だった。水桶がひっくり返り、寝床の藁が、自分ごとびしょ濡れになったあの時以来。
ヴィスカは彼女の手を取って血の跡を確かめ、それからもう片方の手を、腫れた頬へと持ち上げた。触れるまで、あと吐息ひとつ分というところまで近づく。
「どう見ても嘘ですわ」
ジュールズの刺々しい声が二人のあいだに割って入り、ヴィスカの目はたちまち深い青へと沈んだ。彼は手を引き、部屋の奥の壁際にある窓辺まで荒々しく歩いていく。
「ジュールズ、まだアルファとの話の続きを、お前には伝えていなかったな」
そう言って一度言葉を切り、家を囲む森を窓の外に見やった。
ジュールズは不満げに鼻を鳴らしたが、腰に手を当てたまま、ヴィスカが話し終えるのを待った。
「知ってのとおり、ダックスとサヴォンヌの婚姻は、もともとルナ様のお考えだった。女神の加護があらんことを」
「女神の加護があらんことを」
ジュールズとベアが、同時に唱える。二人とも、亡きルナを敬い、慕っていた。あの人の死は、この世界にとってあまりにも残酷な運命だった。
「昨年、ダックスが傷を負った後、反逆者の娘をなおも反逆の王子に嫁がせるべきだと言い出したのは、側女レベッカだ。しかも婚儀を早めようとしている」
あまりに長く黙ったので、ジュールズは足元でもじもじと体重を移し始めた。
「そんな話が、この忌まわしい間者と何の関係があるんですの?」
ジュールズの甲高い声が沈黙を突き破った。
かつてのベータであるヴィスカは、ただ重く息をつき、振り返った。彼が見ていたのはジュールズではなく、ベアだった。
「つまり、側女は王子の家を支配し、ひいては我らの家まで掌中に収めるつもりなのだ。そんなことは許さん。こちらから出し抜き、この遊戯では勝たせてもらう」
彼は再びベアのそばまで歩み寄り、見下ろした。
「お前は側女からの贈り物だった。私が失ったものを思い出させるためのな。ならば今度は、お前がサヴォンヌとダックスへの婚礼の贈り物となれ。サヴォンヌにお前をつけて送ることに害はない。むしろ我らの助けになる。お前が我らの間者となるのだ」
悪寒が手足へ広がり、震えはひどくなる一方で、とうとう歯までかちかちと鳴り始めた。
間者――。
その言葉が、頭の中で何度も何度も繰り返される。どうすれば間者になれるのかも、どうやってこそこそ動けばいいのかも、彼女にはわからない。彼女の人生は、ご主人様に従うこと、それだけだった。それしか知らないし、それだけを目指して生きてきたのだ。
「それは名案ですわ、ヴィスカ!」
ようやくベアの腕を放したジュールズは、しばし考え込むように立ち尽くしたあと、ぱんと手を打ち合わせて目を輝かせた。
「みにくい小石ひとつで、二羽まとめて仕留めるようなものですわね。薄汚いビーストを厄介払いできて、そのうえわたしたちのサヴォンヌには守り役までつく」
ベアは顔を上げた。主人たちの目には、憎悪と醜悪さがありありと宿っていた。
