第2章
高橋愛実視点
山本美奈子さんの部屋は、階下の華美な豪華さとはまったく違う雰囲気だった。暖かく、そして静かだ。
銀髪の老婦人が窓辺のロッキングチェアに腰掛け、庭の薔薇を眺めていた。
美奈子さんの姿を目にした途端、私の怒りはすっと消えていった。彼女はあまりにも儚げで、愛を求めているように見えた。アルツハイマー病はすでに彼女の瞳から光を奪っていたが、それでも優雅な佇まいは失われていなかった。
「こんにちは、山本さん」私はそっと声をかけ、ゆっくりと彼女に歩み寄った。「あなたのお世話をさせていただく、高橋愛実です」
美奈子さんは私を見上げ、その眼差しは戸惑っていたが、私が手を差し伸べると、無意識にそれを握り返してきた。
背後から翔が私たちを見ているのを感じた。振り返ると、彼の表情は複雑だった――さっきまでの冷たい嘲りではなく、どこか……戸惑いのようなものが浮かんでいる?
「夕食はいつも何時頃ですか?」私は彼に尋ねた。「それから、お薬の時間と、彼女が好まれる活動についても教えていただけますか?」
翔はその質問に虚を突かれたようだった。「俺は……詳細は坂口諒から聞け」
『自分の祖母の基本的な生活リズムさえ知らないんだ』私は心の中で断じた。
「美奈子さん、お庭を散歩しませんか?」私は提案した。「外の薔薇がとても綺麗に咲いていますよ」
「薔薇……」美奈子さんの目が輝いた。
美奈子さんを外へ連れて行こうと振り返った時、不意に翔が口を開いた。
「優しくすれば俺が甘くなると思うなよ」彼の声は再び冷たくなった。「これは慈善事業じゃないんだ」
私は返事をせず、その場を去った。
翌日、私は美奈子さんの服薬スケジュールを整理した。
「高橋さん、この整理の仕方は実にプロフェッショナルですね」坂口さんが頷いた。「ここ数日、奥様の精神状態は目に見えて安定されています」
美奈子さんはお気に入りの肘掛け椅子に座り、庭を眺めている。今日の彼女は昨日よりも確かに意識がはっきりしており、瞳にも力があった。
『これがプロのケアというものだ』と、私は思った。
玄関のドアが乱暴に閉まる音がした。翔の足音が廊下に響き渡る。
「一体どうなってるんだ」玄関ホールから聞こえてきた彼の声は、明らかに不機嫌だった。
振り返ると、リビングの入り口に彼が立っていた。まだスーツ姿のままで、部屋を見回しながら眉をひそめている。彼の視線は移動された薬棚で止まり、それから私の作った介護計画表へと移った。
「俺の家に何をした」翔が氷のように冷たい口調で近づいてきた。「薬棚は動かされてるし、食卓には栄養管理表みたいなものが置いてある。おまけに祖母のスケジュールまで変えたのか。君は年寄りの世話をしに来たのか、それとも家のリフォームでもしに来たのか?」
坂口さんが説明しようとしたが、翔はそれを手で制した。
私は冷静さを保った。「これらは標準的なケアプロトコルです、山本様。服薬タイミングの調整は効果を高め、食事内容の変更は認知機能の向上に繋がります」
「標準プロトコルだと?」翔は鼻で笑った。「この家のルールを勝手に変える許可を与えた覚えはないがな」
「では、どうしろと?」私は彼の目をまっすぐに見つめた。「美奈子さんの状態が悪化していくのを、ただ黙って座って見ていろとでも?」
翔は一瞬言葉に詰まった。明らかに、そんな反論が返ってくるとは思っていなかったのだろう。
「これらの変更は、彼女の状態にとって有益なものです」私は続けた。「もし不適切だと思われるなら、一つ一つの調整について医学的根拠をご説明しますが」
部屋は静まり返った。
翔は祖母に目をやり、その瞳に複雑な感情がよぎったが、すぐにまた冷たい態度に戻った。「君の医学的な説明なんぞ聞く必要はない。ただ覚えておけ――ここは俺の家だ。実験室じゃない」
彼は背を向けて二階へ向かい、残された私と坂口さんは顔を見合わせた。
『なんて人なの』怒りが込み上げてきた。
午前二時、美奈子さんの部屋から物音がして、私は目を覚ました。
部屋へ行くと、彼女はベッドの縁に腰掛け、シーツを握りしめていた。その瞳は混乱と恐怖に満ちている。
典型的な夜間せん妄だ。私は優しく近づいた。「美奈子さん、愛実ですよ。大丈夫、お家にいますからね」
「いいえ、違うの」彼女は首を振り、立ち上がろうとした。
私はそっと彼女の手を取り、座るように促した。「今は夜ですよ――眠る時間です」
「でも、怖いの」彼女の声は子供のようになった。「暗闇の中に、誰かが私を待っているの」
私はベッドの縁に腰掛け、彼女の手を優しく撫でた。「誰もあなたを傷つけたりしないわ。私がここにいるから。外の音を聞いてみて――聞こえる? 夜の鳥たちが歌っているの。すべて大丈夫だって教えてくれてるのよ」
私はそっと子守唄を口ずさみ始めた。次第に美奈子さんの呼吸は穏やかになり、瞳に浮かんでいた恐怖も薄れていった。
ドアの外に人影が立っていることには、気づかなかった。
「愛実?」不意に美奈子さんが言った。
「ここにいますよ」
「ありがとう」彼女は目を閉じた。「こんな風に誰かがそばにいてくれるなんて、本当に久しぶりだわ」
彼女が完全に眠りについたのを確認してから、私は静かに部屋を出た。
戸口で、廊下に立っていた翔とぶつかりそうになった。彼はローブを羽織り、髪は乱れている。
視線が交錯し、気まずい沈黙が空気を重くした。
「この状況は、普通なのか?」彼が尋ねた。
「夜間せん妄はアルツハイマー患者さんにはよくあることです」私は小声で返した。「でも、適切に対処すれば、長くは続きません」
彼は頷き、自室へ戻っていった。だが、ドアを閉める前に、彼の溜め息が聞こえた。
翌朝、翔が坂口さんにこう言っているのを耳にした。「彼女は……まあ、合格点だな」
『合格点?』思わず笑いそうになった。だが、彼の口調には何か別のものが含まれているのを感じ取った――それは、不本意ながらも認めている、ということだろうか?
その日の午後、庭で薔薇の手入れをしていると、電話が鳴った。
「愛実、どうしてる?」律の声は切迫していた。
私はためらった。「兄さん、山本さんはあなたが言うほど悪い人じゃないかもしれない。おばあさんのことを気にかけてる。ただ、うまく表現できないだけなのよ」
「何だって?」律の声が上ずった。「愛実、まさか彼の演技に騙されてるんじゃないだろうな? ああいう手合いは被害者を演じるのが得意なんだぞ」
「演技なんかじゃないわ」私は家のほうに目をやった。「昨夜、美奈子さんがせん妄を起こした時、彼は心配でたまらない様子だった。それに、口では冷たいことを言うけど、美奈子さんのためになることを私がするのを止めたことは一度もないの」
律は黙り込み、それからきっぱりと言った。「愛実、見かけに騙されるな」
「兄さん――」
「俺の言うことを聞け」彼は遮った。「何とかして彼のプライベートな空間に入り込んで、何か弱みになるものを探すんだ」
私は不安になった。「彼の私物を探れって言うの?」
「必要ならな。愛実、これは俺たちの将来がかかってるんだ。いつまでも借金に押し潰されたままでいたいわけじゃないだろ?」
電話を切った後、私は葛藤していた。
『兄さんの言う通りだ――この借金から抜け出さないと。でも……』昨夜の翔の心配そうな顔が脳裏に浮かんだ。
夕食の時間になっても、翔は現れなかった。坂口さん曰く、書斎で仕事をしているとのことだった。
美奈子さんに夜の薬を飲ませた後、書斎の前を通りかかると、まだ明かりがついていた。
美奈子さんの部屋から物音がして、様子を見に行った。彼女はまた起きていて、ベッドの縁に座っていた。
「美奈子さん? どうしました?」
彼女は私を見て、驚くほどはっきりした目で言った。「愛実、こっちへ来て座って。あなたに話しておきたいことがあるの」
私はベッドのそばに座った。彼女は私の手を取り、真剣な声で続けた。「翔があなたに冷たいのは知っているわ。でも、気にしないでやってちょうだい。あの子は子供の頃からああなの。冷たくすることで、自分を守ってきたのよ」
「両親が亡くなってから、あの子を本当に愛してくれたのは私だけだった。でも、私ももう年だし、病気でしょう。あの子はまた家族を失うんじゃないかって感じているの」彼女の瞳に涙が光った。「あの子には、誰かが必要なの。心から愛してくれる人が」
書斎のドアが開いた。物音を聞きつけたのか、翔が出てきた。
彼は美奈子さんのベッドのそばにいる私を見て一瞬立ち止まり、それから近づいてきた。
「おばあさん、また起きてたのか」彼の声は優しかった。
美奈子さんは彼を見て、はっきりと言った。「翔、この子はいい子よ。もっと大事にしてあげなさい」
翔は凍りついた。その視線が美奈子さんと私の間を行き来する。彼の瞳の中に、驚き、戸惑い、そして私には判別できない何か、複雑な感情が渦巻いているのがわかった。
「おばあさん、もう休んだ方がいい」
「約束して」美奈子さんは彼をじっと見つめた。「あの子に優しくすると」
翔は答えなかったが、私が薬を整理していると、彼の視線が私に向けられた。
私たちの視線が交錯し、空気の中に何かが変わったような気がした。
そして私は、律の言葉が完全に正確なのかどうか、疑問に思い始めていた。
この男は本当に、私が想像していたような冷血な債権者なのだろうか?






