第2章 子連れで帰還
「……私、頭おかしくなんかない。考え直したの。葉山墨也に嫌われる子を産むのは、その子にとって不公平だもの」
小林茉由は、もう結論を出していた。お腹の子が男の子か女の子かはわからない。けれど、生まれた瞬間から自分と同じように疎まれ、憎まれる人生を背負わせたくはなかった。
そんな人生、始める必要なんてない。いっそ――生まれ変わったほうがいい。
「そうは言っても……あんた、最初は墨也との子ども、すっごく楽しみにしてたじゃない……」
電話口の石原友里が、はあ、と息を吐く。茉由がどれだけ葉山墨也に執着してきたか、友里は知っていた。
「今は違う」
迷う隙を自分に与えないように、小林茉由はきっぱり言い切る。
「もう切る。病院行くから」
「ちょ、待って。私も――」
友里が言い終える前に、通話はぷつりと切れた。茉由は感情を押し込み、車のキーを掴んで家を出る。
葉山家の人間に知られる前に片づける。葉山墨也の邪魔にならないように――それが、せめてもの最後の配慮だと思った。
一方、病院。
小林雪乃は顔面蒼白で、ぽろぽろと涙をこぼしていた。
「墨也……私、信じてる。絶対、妹じゃない。茉由が私にそんなことするはずないもの……ただ、あなたのことが好きすぎるだけで……」
庇っているようで、実際は火に油を注ぐ言い方だった。言葉の合間にしゃくり上げるたび、葉山墨也の苛立ちは増していく。
目の前に並べられているのは、小林茉由が病院に出入りし、嬉しそうな顔で何かを受け取り、運転手と話している写真の数々。
そして雪乃は、そのタクシーに撥ねられて流産し、ここへ運び込まれたのだ。
運転手は原形を留めないほど殴られ、床に膝をついたまま震えていた。
「うちの子の治療費が必要で……このお嬢さんが大金を……俺、どうしようもなくて……! まさか妊婦さんだなんて知らなかったんです! お願いします、許してください……!」
運転手の口から依頼を認める言葉が出た瞬間、葉山墨也の怒りは臨界に達した。昨日、余計な真似はするなと警告したばかりだ。なのに今日、雪乃がやられた。
「墨也……茉由は、私があなたを奪うのが怖かったんだと思う。あのときも玲司が邪魔をして……だから……全部、私のせい……私が……」
小林雪乃はわざと、葉山玲司の死を匂わせる。
葉山墨也の瞳に、刃のような殺意が走った。
「……あのクズが」
もし小林茉由が目の前にいたなら、昨夜みたいに手加減などしなかっただろう。
「墨也……うぅ……」
雪乃は彼の胸に縋りつき、泣きじゃくる。男の怒気を感じながら、彼の視界の外で運転手へ小さく目配せし、すぐにまた涙声を作った。
――その頃、病院の別フロア。
小林茉由は石原友里に付き添われ、人工妊娠中絶の手続きのために来ていた。
友里が茉由の横顔を見つめる。
「本当に決めた? この扉を入ったら、もう戻らないよ」
「うん。もう執着しない。……あの人たちのために、私は身を引く」
茉由は小さく下腹部に触れ、すうっと息を吸った。
「ほんっと葉山墨也、最悪。子どもの頃は両想いだったくせに、なんであんな歪んだ男になったわけ? よりによって雪乃みたいな、ぶりっ子の偽善者を選ぶとか……目、腐ってる」
友里は本気で悔しかった。妻が夫の浮気相手のために中絶するなんて、どうかしている。
そこへ、鋭い怒声が割り込む。
「小林茉由!」
「よくもノコノコ来られたな!」
背の高い影を見た瞬間、茉由の心臓が跳ねた。
――どうしてここに? どうして、そんな言い方をするの?
家で検査結果の紙を見つけたのだろうか。勝手に堕ろそうとして怒っている? 止めに来た?
そう思った途端、胸の奥に、ほんの少しだけ希望が灯る。
「墨也、あなた……」
近づいた葉山墨也の視線が、茉由の手にある中絶の指示書を捉える。瞳が氷のように冷えた。
次の瞬間、彼の手が彼女の喉を掴み上げる。
「いい度胸だな。誰の子だ、その穢れたガキは?」
茉由は信じられない思いで見上げた。どうして、そんな言葉が出るのか。
「……こ、れは……あなたの……」
「ふん。俺と結婚するために必死だったくせに、俺の子を堕ろすのか?」
葉山墨也は、彼女が他の男と関係を持った可能性を想像し、吐き気を催すほどの嫌悪で手を放した。
「小林茉由。お前は母親の下劣なやり方を完璧に受け継いだな。浮気して、雪乃の子まで殺した。……死ねばいい」
よろけた茉由を友里が支え、怒鳴り返す。
「は? 頭おかしいの!? 奥さんがあなたの子を妊娠するの、普通でしょ! 堕ろすのは雪乃に席を譲るためだって言ってんの! 妻を疑って浮気相手を信じるとか、最低!」
「黙れ」
葉山墨也が低く叱りつける。石原家の顔がなければ、友里ごと潰していた――そんな圧があった。
「行こう、茉由。こんな狂った男、相手にしない! 自分の子だって信じないなら、こっちももう知らない! 離婚したら私がイケメン紹介してあげるから!」
友里が腕を引き、二人は立ち去ろうとした。
「動くな! 雪乃の子を殺したくせに、謝りに行け!」
茉由は嘲るように笑った。
「昨日、家に帰って初めてお義母さんから聞いたの。私は一日中外に出てない。いつ雪乃の子を害する時間があったの?」
「やってないことは認めない。謝らない」
さっきまで芽生えかけた希望は、鋭い痛みになって胸を抉った。この男は、彼女を一欠片も大切にしていない。
それでも――彼女の笑みを見た瞬間、葉山墨也の胸が、制御できないほど痛んだ。だがすぐに押し殺す。これがこの女の本性だ。今まで弱々しく演じていただけ――。
小林茉由と石原友里は病院を出て、別の病院へ向かうことにした。
茉由はぼんやりしていて気づかなかった。運転手は、以前自分を乗せた男だったことに。
車が別荘地へ向かう途中、運転手が突然アクセルを踏み込む。正面から迫るトラック。避けようとハンドルを切った車は、そのまま――崖へ。
「小林茉由!」
停車した葉山墨也の叫びが、遠くで聞こえた気がした。
茉由は自嘲する。……幻聴だ。
――五年後。国内空港。
真紅のロングドレスを纏った女が降り立った瞬間、視線が集中した。雪のように白い肌、艶やかな美貌。隣には双子――片方はクールで整った少年、もう片方は愛らしく華やかな少女。
三人は空港の注目を一身に集める。
「ママ、おばちゃん、あそこ」
少年が大人びた口調で言う。
「うん、ママも見えた」
小林茉由は微笑み、息子の頭を撫でた。
あのとき堕ろさなくてよかった。石原友里の家族の助けで海外へ渡り、最高の治療を受けられたのだから。
