第7章 バレた
石原友里が予約してくれていた個室に着いた瞬間、小林茉由はようやく胸の奥の力が抜けた。
「友里、さっきどれだけツイてなかったか、あんた知らないでしょ!」
彼女は、さっき葉山墨也に二度も遭遇した一部始終をまくし立てる。石原友里は目を丸くし、思わず「腐れ縁ってやつね」とでも言いたげに肩をすくめた。
「でも助かったじゃない。崖から落ちた事故で顔が変わってなかったら、あいつに気づかれて……計画、全部パーだったでしょ」
「ほんとそれ! 最悪、縁起悪すぎ!」
葉山墨也の名を出しただけで苛立ちがこみ上げる。茉由は水を二杯あおってから、ようやく違和感に気づいた。
「……祐奈と裕斗は?」
「ここでご飯食べるって決めてたでしょ。来た途端『お腹すいた』って、食べ物もドリンクもめちゃくちゃ頼んでさ。で、トイレ行くって言い出したの。ちょうど会社の電話が入ったから、スタッフさんに連れてってもらった。もう戻ってくる頃じゃない?」
友里は落ち着き払っている。このホテルはセキュリティも万全だったし、茉由から双子がどれほど優秀なのかも聞いていた。だから、何も心配していなかったのだ。
だが茉由の胸の奥に、嫌な予感がひやりと走る。
「……行って、どれくらい?」
「えっと……三十分くらい……」
友里もようやく表情を変えた。
「そういえば、さっき『秘密の計画がある』とか言ってた気がする」
友里自身、葉山墨也が大嫌いだ。子どもを連れてきたのも、半分は面白がっていたから。けれど会社の電話で気を取られ、双子のことを放ってしまった。
「終わった……絶対、葉山墨也のところ行ってる!」
茉由は慌ててスマホを取り出し、発信する。
一方その頃――。
小林裕斗は人影の陰に身を潜め、着信画面を見た瞬間、少し離れた場所にいる小林祐奈へ手を振った。人が多いうちに逃げろ、という合図だ。裕斗も同時に後ろへ下がる。
祐奈は兄の合図を見て、こっそり抜けようとした――その瞬間。
ふわり、と足が宙に浮いた。
「は、離して! 離してよ!」
祐奈は突然持ち上げられ、恐怖で一気に泣き出した。
「この、わるいやつ!」
お兄ちゃんの言った通りだ。パパはやっぱり悪い人で、来た途端、あの意地悪なおばさんの味方をして自分をいじめるんだ!
じたばた暴れる拍子に、顔に施していた変装が涙で溶け、ぺろりと剥がれ落ちた。葉山墨也の手が、ぴたりと止まる。
周囲もざわついた。何が起きたのか、誰もが状況を飲み込めない。
「やっぱり邪魔しに来たのね!」
最初に反応したのは小林雪乃だった。怒りで顔を歪め、祐奈に掴みかかろうとする。
「このクソガキ――!」
だが葉山墨也が雪乃を押しのけ、泣きじゃくる少女を見下ろした。
「……言え。誰に言われて来た」
目の前の子どもは、さっきの作り物の涙とは違う。本気で、ぼろぼろと泣いている。
普段なら、子どもの泣き声など煩わしいだけのはずだった。なのに今は、なぜか胸の奥がちくりと痛む。泣き顔の輪郭に、あの女の影が重なった気さえして――だからこそ、雪乃を止めてしまった。
とはいえ、この場に現れた時点で裏があるのは間違いない。
葉山墨也は興奮気味にカメラを構える記者たちへ冷たい視線を一閃させると、そのまま祐奈を抱え、強引に会場の外へ連れ出した。
祐奈が連れていかれるのを見て、裕斗は焦った。だが追いかけようにも、葉山墨也が向かった上階はカードキーが必要で入れない。
スマホは鳴り続けている。裕斗は仕方なく通話に出た。
「……もしもし、ママ」
「裕斗。正直に言いなさい。何してたの? なんで祐奈が電話に出ないの?」
茉由はわざと厳しい声を作った。
「何もしてないよ。妹が初めてで楽しいって言うから、ちょっと案内してただけ。戻ろうとしてたんだけど、エレベーターが壊れてさ。まだ上がれてないんだ」
裕斗は、修理中のエレベーターをちらりと見て、即座に言い訳を組み立てた。
本当は内心びくびくだ。雪乃に仕掛けるはずだった計画は崩れ、妹はパパに連れていかれた。ママに知られたら、絶対に心配する。
だからまずは落ち着かせて、そのあとで妹を助ける方法を考える――それしかない。
「……分かった。勝手に動かないで。いつでも連絡取れるようにして」
エレベーター故障と聞き、茉由も焦りながらも打つ手がない。このホテルは十数階。心配でも、下りるなら時間がかかる。
「高級ホテルとか言って、エレベーター壊れるって何なの!」
茉由は苛立たしげに通話を切り、階段で下りる覚悟を決めた。
「今日は十五日でしょ。毎月この日は点検で止まるのよ。あと二分待って。支配人に電話して急がせるから」
友里が茉由の腕を掴んで止める。二人ともハイヒールだ。十数階を階段で下りたら、足が終わる。
「……そうね。待つしかないか」
茉由がため息をつき、個室へ戻ろうとした、その時。
小さな足音がどたどたと迫ってきて――裕斗が勢いよく駆け下りてきた。茉由にぶつかり、転びそうになる。
「危ない!」
茉由が咄嗟に支え、裕斗の肩を掴む。
「祐奈は?」
その場に裕斗がいる時点で、さっきの話が嘘だったと悟る。
裕斗は小さく息を吐き、観念したように言った。
「……パパに連れていかれた」
そして、さっき起きたことを簡潔に白状する。祐奈を追おうとしても、上の階はカードキーが必要で入れなかった、と。
「あなたたち、ほんとに言うこと聞かない!」
茉由は、裕斗が葉山墨也の正体を知っていることにも驚いた。だがそれ以上に、祐奈が連れていかれた事実に怒りが湧く。
友里は呆れたように笑ってしまう。
「仕掛けたつもりが、逆にやられたわけね。裕斗、腕、まだまだだなあ」
裕斗が何か企んでいるのは分かっていた。だからこそ友里も放っておいたのだが、まさか見物どころか祐奈まで取られるとは思わなかった。
「どうするの……!」
茉由の顔色が変わる。今日の葉山墨也が雪乃の誕生日に用意した大騒ぎを思い出す。そこへ祐奈が水を差したとなれば――葉山墨也の性格的に、祐奈が無事で済むとは思えない。
「慌てない。今日は記者が山ほどいる。葉山墨也だって、子ども相手に露骨なことはできないよ。私が行って返してもらう」
友里は葉山墨也を怖がらない。もともと仲が最悪だ。今さらもう一度嫌われたところで痛くもない。
最悪、祐奈を行かせたのは私だって言えばいい。雪乃が気に入らないから――ってね。
「私も行く!」
茉由はもう迷っていられなかった。
「うん、一緒に行こう」
友里は頷いたが、裕斗も付いて来ようとするのを見て眉をひそめる。
「……この子の顔、葉山墨也に似すぎ。連れてくのは危ない」
「ママ、おばちゃん、ぼくは個室にいる。動かない。だから早く妹を連れてきて」
裕斗は自分がやらかしたことを理解していた。自分が雪乃に仕掛けようとしたから、気の弱い祐奈まで巻き込んでしまったのだ。
「ここにいなさい」
茉由は息子の頭を撫で、スタッフに見ておくよう頼むと、友里とともに足早に上階へ向かった。
