第8章 彼女の娘の身分を疑う
最上階で、葉山墨也は泣きわめいて止まらない子どもを見下ろし、直々に問い詰めたことを早くも後悔し始めていた。
――俺は何をやってる。
あの女に似た顔を見た途端、ほんの一瞬でも情が動いた。それが間違いだった。
「黙れ」
苛立ちを抑えきれず低く叱りつけると、子どもはびくりと固まった……かと思った次の瞬間、さっきより大きな声で泣き出した。
「このクソ男! あんた、悪党だ! あの悪いおばさん、あんなに性格悪いのに、なんでまだ好きなのっ!」
祐奈は悔しさが込み上げ、涙をぼろぼろこぼす。
「それに、あたしを連れてくるとか……子どもさらいは犯罪なんだよ! 最低の大悪党!」
頭の奥がずきずきする。葉山墨也はこめかみを押さえたくなるのを堪え、冷たく言い放った。
「お前、分かってるのか。今の発言は名誉毀損と虚偽の流布に当たる。――本当の親に迷惑がかかる」
「……っ」
ママに迷惑。
その言葉に祐奈の泣き声が途切れ、瞳が揺れた。焦りが顔に出る。
その小さな肩が震えるのを見て、葉山墨也の胸の奥に、ほんのわずか――痛みのようなものが走った。
「ママは関係ない! あたしが勝手に来ただけ! あんたがムカつくから、懲らしめに来たの!」
祐奈は涙を乱暴にぬぐい、必死に顔を上げて葉山墨也を睨み返す。
葉山墨也は鼻で笑った。
「言わないなら、このまま閉じ込めてやる。二度とママに会えないようにな」
口にした瞬間、自分でも幼稚だと分かった。調べる手段ならいくらでもある。子ども相手に脅して時間を潰す必要などない。
そのとき、インターホンが鳴った。
秘書が扉を開け、そこに立っていた小林茉由の姿に目を見張る。
「ママ! 助けて!」
祐奈は弾かれたように駆け出し、小林茉由に飛びついた。小林茉由は慌てて抱きとめ、きつく抱きしめる。
「……またお前か」
葉山墨也の目が細くなる。
今日だけで何度目だ。偶然だと言われて、信じる者がいるのか。
「また『たまたまです』って言うつもりか?」
「……事故みたいなものです」
小林茉由はそう答えながら、自分でも言い訳が苦しいと感じていた。
祐奈の体に傷がないのを確認して、ようやく心臓が元の位置に戻る。
「すみません。帰国したばかりで、ちょっと悪戯が過ぎて……私の不注意です」
頭が痛い。どう説明すればいい。事前に知らなかった、子どもが勝手に――そんな話、誰が信じる。
「言い訳は決まったか?」
葉山墨也が一歩、また一歩と詰め寄る。肌を刺すような圧が、真正面から押し寄せる。
小林茉由は反射的に後ずさった。逃げようとした瞬間、手首を掴まれる。鉄の輪で固定されたみたいに、びくともしない。
――石原友里も一緒に上がらせればよかった。
後悔が遅れて押し寄せた、そのとき。
「墨也! あのガキどこ!? 私がきっちり躾けてやる!」
秘書が止めきれなかったのだろう。小林雪乃が勢いよく飛び込んできて、ちょうど葉山墨也が小林茉由の手首を掴んでいる場面を目撃した。
「……その女、誰?」
小林雪乃の瞳に嫉妬が走る。
これまで自分が少しでも近づけば押し返されたのに、なぜこの女はこんな距離にいられる?
どこから湧いて出たのよ。
視線が、小林茉由の背に庇われた祐奈へ移る。小林雪乃の目つきが、毒を含んだ刃のように変わった。
「この子、あんたが連れてきたんでしょ? こんなに小さいのに、なんて卑しい子なの。こんな卑劣な手まで使って、あんたの男への色仕掛けを手伝うなんて……」
パァン!
乾いた音が屋上に響いた。
小林雪乃は頬を押さえ、呆然と目を見開く。
「……私を殴ったの?」
「殴ったら何?」
小林茉由は冷たく笑った。子を守る本能が、仮面を剥ぎ取る。小林雪乃を見る目に、はっきりとした殺気が宿った。
「警告する。私の子を侮辱しないで」
「ひっ……」
小林雪乃は思わず一歩退いた。
その一瞬、目の前の女に――死んだはずの小林茉由の影を見た気がして、背筋が凍る。
あり得ない。あの女は……死んだ。
さらに追い打ちをかけようとした小林茉由の手首を、今度は葉山墨也が掴んだ。
「……もういい」
氷のように冷たい声が、小林茉由を現実へ引き戻す。
――今は、正体を晒す時じゃない。
「お前は……何者だ」
葉山墨也の視線は、複雑に揺れていた。
小林茉由は咄嗟に目を逸らす。ふと小林雪乃の嫉妬に歪んだ顔が目に入り、口角がゆるく上がった。
わざとだ。
小林茉由はそのまま葉山墨也に体を預けるように寄り添い、甘く言った。
「小林雪乃、一つだけ訂正してあげる。私が葉山墨也にしがみついてるんじゃない。――この人が、私を離さないの」
葉山墨也は一瞬、動きを止めた。……そして、彼女を突き放さなかった。
それを見た小林雪乃の目に、悔しさと嫉妬の涙が滲む。
「墨也……私、殴られたのよ? 助けてくれないの?」
そこへ、扉が押し開けられた。
「葉山墨也、さすがに品がないな。義姉さんの手、いつまで掴んでるつもりだ?」
気だるげでふざけた声が、全員の視線を奪う。
牧野言治。
小林茉由は彼の姿に意外そうに目を瞬かせたが、同時に胸の奥がすっと軽くなった。
「お兄ちゃん!」
祐奈は救世主を見つけたみたいに駆け寄り、牧野言治に抱きつく。
「またいい子にしてなかったな。何回言った? 俺のことはおじさんって呼べ」
牧野言治は祐奈を抱き上げ、くすっと笑って鼻先を軽くつついた。
その呼び方に葉山墨也の顔が一気に陰る。
「……牧野匠海の女か?」
掴んでいた力がわずかに緩んだ隙を突き、小林茉由は手を引き抜く。葉山墨也が再び掴もうとした瞬間、牧野言治が一歩前に出て彼女を背に庇った。
「そうだよ。紹介する。兄貴の彼女、小林莉緒」
「……そうか」
葉山墨也の声は冷淡だった。信じていないのが露骨に分かる。
「もちろん。小林莉緒は兄貴の大事な人だ。帰国したから迎えに来いって言われてね」
牧野言治の口調も、ここで冷えた。
「牧野家と葉山家は協業中だろ。兄貴の彼女に対して、葉山若様はもう少し礼儀を持ったほうがいい」
小林雪乃は頬を押さえたまま、痛みと嫉妬で目を赤くして小林茉由を睨む。
小林茉由が死んでから初めて、自分の立場が脅かされる感覚がした。
――この女、何者? 牧野家と繋がってる?
T市で葉山家に次ぐのは牧野家。知らない者はいない。
小林雪乃は葉山墨也の隣へ寄り、酸っぱい声で言った。
「墨也……牧野匠海の彼女なら、もういいわ。どうせ私は立場も弱いし、殴られても我慢するしかないもの」
言葉では引くふりをしながら、矛先は一つ一つ小林茉由へ向けられていく。
「でも今日は、墨也が私のために誕生日パーティーを開いてくれた日よ? 牧野若様は、お兄さんの彼女に子どもまで連れてきて、私を陥れるつもりなの? それとも、墨也の顔に泥を塗りたいの?」
葉山墨也が鼻で笑う。
「牧野家の意思か?」
「違う。今日は子どもが悪戯しただけだ。誤解だよ」
牧野言治は正面衝突を避けるように、素直に頭を下げた。
「葉山若様、こちらから謝罪する」
そして続ける。
「誠意として、星川市のあの案件――牧野側が利益を三割譲る。葉山社長、どうだ?」
星川市の案件は、牧野家の看板級だ。それを三割譲るということは、毎年十億単位を葉山家に差し出すに等しい。
確かに、誠意は十分すぎるほどだった。
葉山墨也の目が細くなる。
「それはお前の判断か。それとも牧野匠海の判断か?」
「俺の判断は、兄貴の判断」
葉山墨也は冷たく笑った。
「……じゃあ、小林さんが今まで俺に絡んできたのも、全部『偶然』ってことか?」
