第9章 またお前か?
「もちろん偶然です。でなきゃ、葉山社長は何だと思ってるんですか?」
小林茉由は、彼のその笑みに背筋がぞわりとした。よく知っている。――この男は、本気で怒っているときほど、こんなふうに笑う。
「子どもも、牧野匠海のか?」
「……」
しまった。そこ、忘れてた。
祐奈の身分、どう説明すればいい?
牧野言治は情けないと言わんばかりに彼女の腕を小突いた。
小林茉由は、ようやく少しだけ腹が据わる。
葉山墨也は――この顔を、知らない。だったら怖がる必要なんてない。
顔を上げ、きっぱりと言い切った。
「それは私のプライバシーです。葉山社長には関係ありません」
その瞬間、葉山墨也の表情がすっと冷えた。
部屋の空気が一気に凍りつく。彼の体から立ちのぼる冷気が、肌を刺すようだった。
鋭い切れ長の目が三人をなぞる。じっと、じっと。しばらく、言葉が落ちてこない。
小林茉由は見つめられるほどに心臓が騒いだ。
この目がいちばん苦手だ。底の見えない黒。何を考えているのか、まるで読めない。
やがて葉山墨也が、唐突に口を開く。
「……お前の言うとおりにする。この件は、ここまでだ」
「墨也!」
小林雪乃が目を見開いた。
殴られたことが、こんなふうに軽く流されるの? じゃあ私は何なの――。
小林茉由は小林雪乃を露骨に見下すように一瞥し、わざとらしく言った。
「葉山社長。あなたの女、あんまり言うこと聞かないみたいですけど」
「彼女は違う」
葉山墨也は冷たい顔のまま言い捨て、桐谷辰哉に目で合図した。――退室させろ、と。
胸の奥に、拭いきれない疑念が残る。調べれば、はっきりする。
小林茉由は、望みどおり小林雪乃の整った顔が歪むのを見た。
さっきまで小林雪乃は「彼女」の立場で居座っていたのに。今の一言は、容赦なくその面子を潰した。
状況さえ違えば、ここに残って見物したいくらいだった。
三人が出ていったあと、小林雪乃はなおも葉山墨也に泣きつこうとしたが、彼は桐谷辰哉に「送っていけ」とだけ命じた。
小林雪乃は悔しさに奥歯を噛みしめる。
「桐谷辰哉。親子鑑定を手配しろ」
葉山墨也は手の中のものを差し出した。さっき小林祐奈が落とした髪の毛だ。
桐谷辰哉はぎょっとする。
「葉山社長……まさか、疑って――」
葉山墨也の表情を見て、桐谷辰哉は残りの言葉を喉の奥に飲み込んだ。
一方、部屋を出た小林茉由は、牧野言治に頭を下げた。
「さっきは助けてくれてありがとう。葉山墨也に約束した譲歩、いくら損したの? 私、どうにかして返す」
「いらねえよ。大した額じゃないし」
牧野言治はひらひらと手を振り、どれだけ損したかは口にしなかった。どうせ減るのは兄の金だ。
「じゃあさ。新作の腕時計、俺にくれない? 最近、二百万まで値が上がってるって聞いた。さすが広末先生の最後の弟子だよな」
小林茉由の申し訳なさそうな顔を見て、牧野言治は急にそう言った。
あの時計、前から本気で欲しかったのだ。
「いいよ。あげる」
小林茉由はほっと息をついた。人に借りを作るのが苦手だ。
時計一つで釣り合うとは思わない。でも、返せる分は返したい。
すでにネットで面接した会社もある。働き始めたら、少しずつでも埋めていけばいい。
「だからそんな顔すんなって。兄貴にバレたら『義姉さんいじめたのか』って俺が締められるだろ。そもそも、あのときお前がいなきゃ爺ちゃん死んでたんだぞ。うちはでっけえ恩がある。兄貴の金なんて腐るほどあるし、こんくらい痛くもねえよ」
牧野言治は本気で気にしていない様子だった。
兄からの電話で「必ず小林茉由の面倒を見ろ」と命じられていたのだ。これくらいの出費、兄も気にしない。
「その呼び方やめて。あなたも知ってるでしょ。私と匠海さんは、そういう関係じゃない」
小林茉由がうんざりしたように訂正する。
あのとき彼女は牧野将明を助け、将明に結婚を急かされ、牧野匠海に頼まれて一度だけ恋人役を演じた。
裏ではただの友人関係だ。
「兄貴とお前のことは、俺にはわかんねえ」
牧野言治は肩をすくめ、用が済んだとばかりに立ち去った。
小林茉由は祐奈を連れて個室に戻ると、二人の子どもを正面に立たせ、きつく叱った。
小林裕斗も小林祐奈も、自分たちがやらかしたことはわかっている。しゅんとしたまま、おとなしく叱られていた。
小林茉由は腹の中に怒りが渦巻いていたのに、二人のしおらしい姿を見た途端、結局心が折れた。
この子たちは生まれつき頭がよくて、「父親がいない」ことをずっと気にしてきた。
葉山墨也を一目見たいと思うのも、無理はない。
小林茉由はため息をつく。
「もう知ってしまったなら、隠しても仕方ないね。葉山墨也は、あなたたちのパパよ。でも、ママとあの人は仲が最悪なの。だから、これからも会わせるつもりはないし、父親として認知させるつもりもない。だから二人とも、いい? 大人しくして」
「わかった、ママ。もうしない」
裕斗と祐奈が同時に頷き、石原友里は思わず笑ってしまった。
「茉由、もういいって。ちゃんと片づいたんだから、脅かすのはそこまで。……それより、これからどうするの?」
「まず仕事探す。お金ない」
小林茉由は情けない顔になる。せっかく貯めたのに、葉山墨也に三回も遭遇して全部吹っ飛んだ。
働かないと、本当に詰む。
石原友里が手を差し伸べる。
「紹介しようか?」
「大丈夫。海外にいる間にネットで面接した会社があって、一次も二次も通った。明日から出社できるって。……それと、この子たちの転校手続き、お願いしてもいい?」
さっき人事に電話したら、前倒し出社を喜んで了承してくれた。
「任せて。絶対にやっておく」
石原友里は笑って請け負った。
翌朝、小林茉由は新しい会社へ出社した。
人事担当は彼女を見るなり、目を見張る。
「小林部長、すごくお綺麗ですね」
「ありがとうございます。まず、今すぐ覚えるべき業務ってありますか?」
小林茉由は微笑んで、先に仕事の話を切り出した。
「まず社長にご挨拶を。面接したのは副社長でしたよね。うちは支社なので社長は滅多に来ないんですが、今日はたまたまいらしてて。ちょうどいいのでご案内します」
小林茉由は頷いた。異論はない。
そして――。
「葉山社長、新しいデザイン部長がお見えです」
その呼び方を聞いた瞬間、小林茉由は遅れて違和感に気づいた。
見覚えのある背中が視界に入った途端、胸の底から後悔がこみ上げる。
今さら逃げても遅い。
葉山墨也が振り返り、ちょうど彼女の「逃げよう」とした動きを目に留めた。
彼は人事に言う。
「君は出ていい」
小林茉由は一緒に出ようとしたが、低い声が刺さる。
「お前は残れ」
「お仕事の話だと思いますので」
人事はそう笑い、小林茉由に会釈して出ていった。
扉が閉まる。
小林茉由は心の中で叫びたい気分だった。
どうして会社のオーナーを調べなかったの、私。
葉山墨也が歯を鳴らすように笑う。
「新しいデザイン部長ってのは、お前か。……ずいぶん都合のいい偶然だな」
小林茉由は、これ以上ないほど気まずい。
「これも偶然だって言ったら……信じる?」
