第1章
個室のシャンデリアが、ふわりふわりと揺れて目眩がしそうだった。
新谷音羽は細い指先で、九尾目のエビを黙々と剥いている。
林翔太は茹で海老が大好物だ。彼のために、この手際を身につけるのに五年かかった。
「音羽……」
友人がそっと彼女の裾を引いた。
新谷音羽が顔を上げると、林翔太が新入りのインターン秘書を抱くようにして入ってきた。秘書は身体のラインが露骨に出るタイトなオフィススーツで、艶やかな曲線を隠そうともしない。
「大口契約、おめでとう」
林翔太は主賓席の椅子を引き、秘書を自分の膝に座らせたまま、新谷音羽に向かってグラスを軽く掲げる。
「音羽、働かせたな」
エビの殻が指先に食い込み、新谷音羽の胸がきゅっと詰まった。
個室が一瞬で静まり返り、視線が全部、彼女に集まる。
「終わった……」
誰かの小声が落ちた。
会社の人間は知っている。新谷音羽こそが林翔太の「本命」だ。なのに、打ち上げの席で新人秘書を連れて堂々とイチャつくなんて――面子を潰すにもほどがある。
新谷音羽は宝飾デザインの才能が抜きん出ていて、若くして国内外に名を知られている。けれど林翔太を支えるため、海外でのキャリアを捨てた。
今回の大型案件だって、七日連続の残業でクライアントが納得する図面を仕上げ、顔色は目に見えて落ちていた。
新谷音羽は同情の視線を無視して、静かに立ち上がる。
「みんなのおかげ。お酒、開けてくるね」
個室を出た途端、壁にもたれて――ふっと笑った。
新谷音羽。いつまで自分を安売りするの?
深呼吸して戻ると、ちょうど林翔太が秘書とキスしている最中だった。周囲の囃し立てる声が、わっと湧く。
「やめろって……」
彼女に気づいた誰かが、慌てて制した。
空気が凍りつく。
林翔太は悪びれもせず、気怠げに言った。
「ゲームだろ」
「……うん」
新谷音羽は席に座り、剥き終えたエビを彼の前へ静かに押しやった。
だが林翔太は一尾つまむと、それを秘書の口元へ。
新谷音羽はただ見つめ、胸の奥が刃物でえぐられるようだった。
手を拭い、グラス一杯を一気に飲み干す。
「翔太、別れよう」
個室が死んだように静まる。
林翔太はだらしなく頷いた。
「いいよ。今後も同僚だろ。何かあれば言えよ」
「ない。明日、辞めるから」
新谷音羽はバッグを持ち、皆に微笑む。
「お会計は済ませたよ。楽しんで」
そう言い残して背を向けた。
取り残された一同は顔を見合わせる。
「翔太さん、音羽さん……今度は本気っぽい」
林翔太は秘書を抱いたまま、鼻で笑う。
「慌てるなよ」
「そうそう。前の忘年会だって、あれだけ揉めて三日で仲直りしたじゃん」
「俺は七日以内に戻るに一票」
「三日が限界だろ!」
林翔太は半開きのドアを一瞥し、口角を上げた。
「二時間だ。二時間もしないで戻ってくる」
どっと笑いが起きる中、彼は腕時計を見て、悠々と乾杯した。
……
店を出た新谷音羽は、車窓を流れるネオンを眺めながら叔母に電話をかけた。
「おばさん。政略結婚、受ける。手配して」
「そうこなくちゃ。あなたのためよ。わかってくれて嬉しいわ」
相手は上機嫌で言う。
「明日会う約束を取りつけるわ。結婚の話を詰めましょ」
「わかった」
本来なら、こんな縁談は彼女の番ではなかった。蒼井家はA市随一の名家で、格が違う。
この婚約は上の世代が決めたもので、家の中で「条件に合う」人間が、結局彼女しか残っていなかった。
数年前から彼女は林翔太のために逃げ続けた。
一生を共にできる相手を見つけたと信じ、家の決め事に逆らってでも新谷家の栄華を捨て、林翔太と苦労を背負う覚悟をした。
――結果は、彼女の負けだった。
もう恋愛に期待なんてない。戻って責任を果たし、新谷家の繁栄と引き換えにする。
それが、これまで育てられた分の返礼になる。
翌日。
古風な意匠の個室で、新谷音羽は俯いてぼんやりしていた。
そっと扉が開く。
すっと伸びた長身の影が入ってくる。濃色の仕立ての良いスーツ。冷ややかな顔立ち。周囲の空気まで押し曲げるような圧がある。
近づくほど、冷たい沈香の香りが淡く届いた。
新谷音羽は微かに目を見開き、顔を上げる。
この顔……どこかで見た気がする。曖昧な既視感だけが残るのに、思い出せない。
今日は蒼井翼と話を詰めるはず――なのに、この男は誰?
男は向かいに落ち着いて座り、低く澄んだ声で名乗った。
「新谷さん。蒼井沢言です。蒼井翼の叔父にあたります」
新谷音羽の胸が、どんと揺れた。
蒼井沢言。今の蒼井家を率いる男。財界で「生きた鬼」と呼ばれる人物。
蒼井家は、両家の縁談をそれほど重く見ているということか。こんな「大物」を寄越すなんて。
「翼が急用で。代わりに俺が、この婚姻について話を詰める」
淡々とした声。静かな眼差しが彼女の顔に留まる。
「新谷さん、異存は?」
「い、いえ……ありません」
新谷音羽は背筋を正し、強引に視線を受け止めた。
蒼井沢言の瞳がわずかに動く。
「異存がないなら、挙式は来月8日に決める」
書類を彼女の前へすっと滑らせ、視線を合わせたまま言う。
「式はこちらで手配する。君は……」
その目が一瞬だけ彼女の唇に落ちる。
「時間どおりに出席すればいい」
――
翌日、出かけようとして玄関先に二つのギフトボックスが置いてあるのを見つけた。
ひとつ目は林グループのロゴ入り。中身はダイヤがぎっしりのブレスレット。添えられたカードに、乱暴な字で書かれていた。
「いい子にしろ。騒ぐな。――翔太」
新谷音羽は鼻で笑った。こんな安っぽくて芸のないもの、林翔太が選ぶはずがない。
二つ目は深い紫のベルベットケース。蓋を開けた瞬間、息が止まった。
ブチェラッティのムーンフラワー・ブレスレットが、黒いサテンの上に静かに横たわっている。花弁一枚一枚に、最高級の紫翡翠。
カードには短い一文。
「明日迎えに行く。――蒼井」
「蒼井翼……?」
新谷音羽は小さく呟き、指先でそっと撫でた。これは一昨年、海外で五千万の高値で落札された博物館級の品だ。
ときめかないわけがない。ほとんど会ったこともない政略結婚の相手がこれほど心を砕くのに、五年一緒にいた林翔太は――。
……本当に、滑稽だ。
スマホの連絡先を探し、リストの一番下で蒼井翼の番号を見つける。去年、礼儀として交換したきり、連絡は一度もない。
まさか今、婚約者同士になっているなんて。
新谷音羽は初めてのメッセージを送った。
「ありがとう。とても気に入りました」
