第2章

バー・ルパ。

ピンク色の髪をした蒼井翼はスマホを握ったまま、目を見開いて固まっていた。

――なんで新谷音羽が、いきなり意味不明なメッセージを送ってくるんだ?

そこで、ふと思い当たる。

今朝、叔父が人を使って、新谷音羽へブチェラッティのムーンライト・ブレスレットを届けさせたはずだ。

五千万を、まばたきひとつせず落札したあれ。贈り先なんて、新谷音羽に決まってる。

なのに。

礼を言われているのは――自分?

まさか……。

蒼井翼は店の外へ出て、蒼井沢言に電話をかけた。

「叔父様、今すぐ話さなきゃいけないことがある」

壁にもたれ、煙草をくわえたまま、いい加減な声が返ってくる。

「言え」

蒼井翼は咳払いしてから切り出した。

「叔父様。あの日、新谷音羽と縁談の話をしたとき……結婚相手が叔父様だって、言ってないよね?」

「……」

沈黙で察する。

蒼井翼は吹き出した。

「やっぱり! 叔父様さぁ! あの子、縁談の相手が俺だと思ってるし、叔父様が送ったプレゼントも俺が――って勘違いして、俺にお礼メッセージ送ってきたんだよ! 叔父様――」

「支度しろ。海外で炭鉱でも掘ってこい」

「えっ! 叔父様、落ち着いて話そうよ! 俺――」

返ってきたのは、ツーツーという無情な切断音だった。

蒼井翼は魂が抜けた顔で天を仰ぐ。

余計な口を叩くんじゃなかった。

――

新谷音羽は林グループを去ると決め、会社へ荷物を取りに行った。

片付けを終え、帰ろうとして廊下の角で人だかりにぶつかる。

「えっ、音羽さんじゃない?」

誰かが目ざとく見つける。

林翔太は壁にだるそうにもたれ、気配にまぶたを持ち上げて、得心の笑みを浮かべた。

案の定だ。新谷音羽は駆け引きしているだけ。

自分が浅田美晴の誕生日を祝う、艶めいた匂わせ投稿をしたら――こうして飛んでくる。

浅田美晴は彼の視線を追い、わざと首元のネックレスに触れて挑発する。

「音羽さん、私の誕生日会に来たの? でも送迎車、もう満席なんだ。シェアチャリで高級料亭『雲林』まで行く? ……入れてもらえないかもね」

浅田美晴は林翔太の「高嶺の花」。

関係はずっと曖昧で、音羽も彼女のことで何度も喧嘩した。けれどいつも「お前が子どもだ」で片づけられてきた。

新谷音羽の視線が、そのネックレスに止まる。

三晩徹夜で仕上げたデザイン。中央の『月の涙』は、安物のクリスタルにすり替えられていた。

音羽は林翔太を見上げ、唇に冷たい弧を描く。

あんな男のために、海外での研鑽まで捨てたなんて。

「結構です」

声は氷みたいに澄んでいた。

「ただ、ひとつ処理が残ってる」

彼女は林翔太へ歩み寄り、鋭い目で言い切る。

「このネックレスの設計図は私の個人作品です。浅田美晴さんが無断で制作した時点で侵害にあたります。これまでの情を考えて、デザイン料と賠償として合計200万、支払ってください」

林翔太が彼女の手首を乱暴につかみ、声を落とす。

「新谷音羽、いい加減にしろ。引くなら引くで限度があるだろ」

三日と八時間。

今まで、こんなに長く揉めたことはない。

この三日、どうやっても連絡がつかない。贈り物を届けても、返事ひとつない。

音羽は必ず自分を見ている。

だから美晴の誕生日会に出る。仲良くして見せる。――焦らせるつもりだった。

「離して」

音羽は力任せに振りほどき、目を据える。

「私たちは終わった。私が、あなたを要らないって言ってるの。わかる?」

林翔太が冷笑する。

「次、見つけたか?」

「お互い様でしょ」

音羽は美晴を一瞥する。

「あなたも高嶺の花を連れて、派手に見せびらかしてる」

浅田美晴が慌てて前に出る。

「音羽さん、誤解で――」

「誤解?」

音羽は遮った。

「それ、先週の火曜日も聞いた」

一歩退き、距離を取る。

「早めに払ってください。払わないなら、明日には裁判所から呼び出しが届きます」

迷いなく去る背中に、林翔太は立ち尽くした。

浅田美晴が何か言おうとするのを、彼は苛立たしげに遮る。

「誕生日会は先に行け」

空になった廊下を見つめ、表情は複雑だった。

新谷音羽が本当に去るはずがない。今回も拗ねただけだ。なだめれば戻る――。

――

翌朝。

新谷音羽は身支度を整え、玄関先で待った。

これほどきちんと「婚約者」に会うのは初めてだ。

黒いロールス・ロイスが音もなく滑り寄る。

窓が下がり、音羽は反射的に腰を折る。

「蒼井さん――」

言い終える前に、凍りついた。

後部座席に、蒼井沢言が端正に座っている。

濃色のスーツが冷ややかな気配を際立たせ、朝の光が横顔の輪郭に淡い影を落としていた。

「乗れ」

声は淡々としている。

音羽は一瞬迷い、車に乗り込んだ。広い後席にいるのは、二人だけ。

「蒼井翼は……どうして来てないんですか?」

堪えきれず尋ねる。

結婚前に一度も顔を合わせないなんて、さすがにおかしい。

昨日、あの高価なブレスレットを受け取った時、相手もそれなりに真剣なのだと思ったのに。

蒼井沢言は答えず、彼女の顔から視線を外した。

「着いてから話す」

「どこへ?」

「市役所だ」

淡い声。

「婚姻届を出す」

市役所?

音羽は息を呑む。蒼井翼が来ないのに? まさか代理で手続きできるの?

問いかけようと口を開くが、隣の男はタブレットの書類に視線を落とし、彼女の存在を切り捨てるように無言だった。

音羽はそっと口を閉じる。――鬼みたいな圧。違いすぎる。

蒼井沢言は彼女の気配の変化に気づいたのか、画面をスクロールする指がわずかに止まる。

横目で彼女の眉間の皺に視線を落とし、タブレットを置いた。

「ブレスレット、気に入らなかったか」

音羽は慌てて首を振る。

「受け取りました。すごく……気に入りました」

蒼井沢言は淡々と告げる。

「選んだのは俺だ。気に入ったなら、セットのネックレスもある。次、渡す」

音羽は一瞬ぽかんとする。

叔父が、甥の代わりに贈り物まで? そこまで仲がいいの?

疑問が渦を巻く前に、車は市役所前に到着した。

待ち構えていた職員が書類を差し出す。

音羽はペンを取り、署名欄を確認して――凍りついた。

配偶者氏名欄に、はっきりと記されていた。

蒼井沢言。

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