第3章
新谷音羽は胸騒ぎを抑えきれず、署名用のペン先まで微かに震えた。
――結婚相手が、蒼井沢言?
横目で覗く。
蒼井沢言は眉目深く、静けさを湛えたまま。琥珀色の瞳は秋の海みたいに澄んでいて、底にある感情が読めない。
視線が絡んだのは、たった一秒。
音羽は反射的に逸らし、俯いた。すると隣から、蒼井沢言がさらりとサインを入れる音だけが落ちてくる。
――彼女が聞かない以上、彼は答えない。
けれど、事実はもう隠しようがなかった。
彼女が籍を入れるのは、商界に名を轟かせる蒼井家の当主、蒼井沢言。
理由を問いたい。話が違うと言いたい。
だが、そんな度胸はない。
この男がすでに署名した以上、彼女に異議なんて許されるのか。
音羽は唇を噛み、従順に自分の名前を書き入れた。
政略結婚を選んだ時点で、相手が誰だろうと大差はない。
結局は駒だ。仮面夫婦――「妻」を演じ切れば、それでいい。
手続きは淡々と進み、職員が内容を確認し、二人は流れ作業のように写真を撮った。
ほどなくして、立派な賞状のような婚姻届受理証明書が差し出される。
蒼井沢言が先に受け取り、それを音羽へ無造作に渡した。
指先が表紙の金箔模様に触れた瞬間、現実感がふっと遠のく。
――見たのは、たった二度。そんな男と、こんなにあっさり結婚してしまった。
役所を出ると、蒼井沢言が先に口を開く。
「明日迎えに来る。余計なことは考えるな。俺の段取りに従え」
声は淡々としているのに、有無を言わせない威圧があった。
「結婚の件は公表の時期を見て出す。以後の手配もこちらで整える。君は気にしなくていい」
音羽は口を開きかける。疑問は山ほどある。
それでも、喉まで上がった言葉は結局飲み込んだ。
この男を前にすると、自分の疑問がひどく余計に思える。
「……わかりました」
運転手がすでに路肩で待っていた。
新谷家別邸の門前まで送り届けると、車は静かに走り去っていく。
テールランプが見えなくなって、張り詰めていた神経がようやくほどけた。
別邸の窓から漏れる淡い黄色の灯りを見上げる。
家に戻れば、少しは慰めがあるかもしれない――そう思った、のに。
扉を開けた途端、父の甘い声が耳に刺さった。
「浩市、すごいじゃないか! 操作がうまいなあ。さすが俺の息子だ」
鼻の奥がつんと痛む。
これほど溺愛するような、慈愛に満ちた声を、彼女は一度だって聞いたことがなかった。それは、決して自分に向けられたことのない声だった。
靴を脱いで上がると、継母の新谷理恵が果物の皿を持ってキッチンから出てきた。
視界の端で音羽を捉えているはずなのに、わざと見なかったことにして父へ小言を言う。
「あなたってば、甘やかしすぎよ」
そう言いながら、ウサギ形に切ったリンゴを箸でつまみ、浩市の口元へ運んだ。
身体がじわじわ硬くなり、指先が冷えていく。
自分だけが、幸福を覗き見る他人――あるいは、ドブネズミみたいだ。
喉が締めつけられる。音羽は小さく呼びかけた。
「……お父さん、理恵さん」
新谷邦夫はようやく顔を上げた。
視線に温度はなく、淡々と聞く。
「帰ったか。蒼井家の若奥様の件、籍は入れたのか」
「うん、入れた」
音羽は頷き、ためらいながら婚姻届受理証明書を差し出す。
「お父さん。私、相手があの人だとは――」
邦夫は手を振って遮り、婚姻届受理証明書すら見なかった。
眉間を揉み、娘に対する苛立ちを隠さない。
「誰だろうが重要じゃない。蒼井家との関係を維持すること、それが一番だ。わかるな?」
「もう子どもじゃない。好き勝手も十分させた。育ててもらった分、そろそろ新谷家に返す番だろう」
音羽の指が、宙で固まる。
引っ込める動作すら滑稽で、胸の奥がぐちゃぐちゃになった。
父が欲しいのは、蒼井家との縁だけ。
嫁ぎ先が猫だろうが犬だろうが構わない――そう言っている。
自分ですら、誰と結婚するか知らなかったのも当然だ。
理恵が果物皿を置き、音羽の手を掴んで作り笑いを浮かべた。
「音羽、あなたは本当に運がいいわ。蒼井家に嫁げるなんて」
「でもね、この縁談は簡単に得られたものじゃないの。嫁いだら何もかも抜かりなく」
音羽は掠れた声で聞き返す。
「……どういう意味ですか」
理恵はにこやかに、刺すように言った。
「良い妻になりなさい。旦那さまに尽くして、機嫌を取って。わがままなんて言わないこと」
「新谷家がもっと上に行けるかどうか、全部あなた次第よ」
「尽くす……?」
音羽は手を引き抜き、信じられない目で見た。
「私は結婚するの。奴隷になりに行くんじゃない!」
邦夫の眉が吊り上がる。
「口の利き方を直せ。嫁いだら蒼井家の人間だ。夫に仕えるのは当然だろう」
「外で宝飾デザイナーごっこをして、偉くなった気か?」
「新谷家が育てなきゃ、お前は何者だ。新谷家がなければ蒼井家に嫁げたと思うなよ」
言葉の端々に、侮蔑が滲む。
けれど音羽は学費以外、何ひとつ頼っていない。資源も人脈も使っていない。
自力で積み上げても、ゲームばかりの放蕩な弟には勝てない。
浩市がゲーム機を止め、不遜に言った。
「姉ちゃん、蒼井社長に取り入れろよ。俺に仕事回してさ、ついでにスポーツカーも買って」
「浩市!」
音羽は震えながら叱る。
「自分の欲しいものを、どうして人に買わせるの? 何歳なの。少しは意地を持って!」
「なんで俺を怒るんだよ!」
浩市はすぐ父に縋る。
「父さん、見てよ。姉ちゃんが俺をいじめる!」
「音羽!」
邦夫は指を突きつけ怒鳴った。
「弟の冗談にムキになるな! 弟を助けるのは当たり前だろう。羽が伸びたもんだな。家のことを眼中にないのか!」
音羽は目の前の家族を見て、心がじわじわ沈んでいく。
温もりを求めて帰ってきたのに、返ってくるのは非難と算段だけ。
父の目には弟しかいない。継母の頭にあるのは利用だけ。
この家に、彼女の居場所は最初からなかった。
音羽は息を吸い、涙を押し込み、氷みたいに言い放つ。
「こんな家、帰る価値もない」
「この罰当たりが!」
邦夫が机を叩き、怒りに任せて手を振り上げた。
