第4章

鋭い風切り音とともに掌が振り下ろされる。新谷音羽は反射的に首を傾けた。

次の瞬間、その一撃は彼女の頬ではなく背後の壁へ叩きつけられ、鈍い音が部屋に響く。

新谷邦夫は痺れた手を押さえ、怒りで顔を歪めて吼えた。

「お前、まだ避ける気か!」

その歪んだ表情を見た瞬間、音羽の胸の奥に残っていた最後の「家族」への期待が、音もなく砕け散った。

可笑しい。

この五年、彼女は林翔太という男のために、この家から逃げ出すことばかり考えてきた。

戻って責任を果たしたはずなのに、結局わかったのは、最初から最後まで――自分はただ利用され、捨てられるための道具だったという事実だけ。

この家が一度も温もりをくれなかったから、林翔太の安い優しさを救いだと勘違いして、必死に縋りついた。

それが世界のすべてだと信じて。

なんて、惨めで、哀れで。

「どうして避けちゃいけないの?」

音羽は背筋を伸ばし、凍りつくような目で睨み返す。

「小さい頃から、私を殴った回数、少ない? もう殴られたくない。ダメ?」

言い切ると、家族の呆然とした顔も怒りも視界から切り捨てた。

玄関へ向かい、コートとバッグを掴み、扉を引き開ける。

背中へ怒号が叩きつけられる。

「止まれ! 逆らう気か!」

音羽は止まらない。

冷たい風が襟元へ流れ込むのに、頭は異様なほど冴え切っていた。

夜は深く、街は黒く沈んでいる。

当てもなく歩き続け、気づけば彼女はバー・ルパの扉を押していた。

店内は照明が落ち、ブルースがゆったりと流れている。今の心に、妙に馴染む。

音羽は一番きついウイスキーを一杯だけ頼んだ。琥珀色の液体が揺れ、グラスの底に青白い自分の顔が滲む。

ぐい、と飲み干す。

喉が焼けるように痛むのに、胸の苦さは少しも薄れなかった。

そのとき、少し離れた場所でざわめきが起きた。

若い女の子が泥酔し、友人二人に抱えられながら引きずられていく。呂律の回らない声で泣き叫び、誰かの名前を何度も呼んでいた。

その姿が、音羽を二年前の雨の夜へ引き戻す。

あれも打ち上げだった。林翔太は酔って、音羽が時間をかけて用意した贈り物を、場のノリで囃し立てる女同僚に投げ渡した。

若かった彼女はその場で詰め寄った。

だが返ってきたのは、「大げさだ」「友達の前で恥をかかせるな」という吐き捨てるような言葉だった。

あの夜も、彼女は一人でバーに来て、グラスを重ねた。

酒は神経を麻痺させるくせに、悔しさだけは際限なく増幅させる。

泣いて、息もできないほど泣いて――その隣に、男が座った。

顔は思い出せない。

ただ、沈香の香りだけが記憶に残っている。冷たくて、沈んでいて、それなのに妙に安心できた。

それから先は、途切れ途切れだ。

目が覚めた時には朝で、ホテルの柔らかなベッドの上。身体には清潔なバスローブが着せられていた。

男の姿は、どこにもない。

枕元には水と、メモと、分厚い現金の束。

メモには一行だけ、芯のある字でこう書かれていた。

「二日酔いの薬。起きたら飲め」

その秘密を、音羽は誰にも話していない。

胸の奥へ封をして、思い出さないようにしてきた。――考えるのが怖かった。

「新谷さん」

不意に、頭上から低い声が落ちた。

馴染みのある圧が、乱れた記憶を現実へ引きずり戻す。

音羽は勢いよく顔を上げ、底の見えない瞳にぶつかった。

蒼井沢言が、いつの間にかテーブルの前に立っていた。

濃色のスーツジャケットは腕に掛けられ、白いシャツだけ。襟元のボタンが二つ外れていて、昼間の疎遠さが薄れ、どこか生活の温度がある。

――どうして、ここに。

「そ……蒼井さん」

音羽はぎこちなく立ち上がる。頭がまだ追いつかない。

蒼井沢言は半分空のグラスへ視線を落とし、眉をわずかに寄せた。

「一人で酒を飲む。危ないと思わないのか」

淡々とした声なのに、なぜか責められているみたいで、音羽は小さく肩をすくめる。

「……ちょっと気分が悪くて。座ってただけです」

彼が近づいた瞬間、ふっと鼻先を掠めた。

冷たい沈香の香り。

音羽の全身が強張った。

――この匂い。

二年前の、あの夜と同じ。

荒唐無稽な考えが脳裏をよぎり、彼女は目を見開く。

まさか。そんなはずが――。

蒼井沢言は彼女の動揺に気づかないまま向かいの椅子を引いて座り、書類をテーブルに置いて滑らせた。

「私名義の物件だ。蒼井グループに近く、警備もいい」

簡潔に言い切る。

「新谷家には、しばらく戻るな」

心臓がひゅっと跳ねた。

家を飛び出したことも、行き場まで――この人は知っている。

ずっと、見ていた?

「あなた……」

唇が開く。けれど二年前の問いは舌先で渦を巻くだけで、言葉にならなかった。

もし本当に彼なら、今の自分たちの関係は――笑えるほど滑稽だ。

蒼井沢言は探るような視線を受け止め、瞳の奥にほんの僅かな笑みが走ったように見えた。速すぎて幻みたいに。

彼は音羽のグラスを取り上げ、来た店員へ渡す。

「ホットミルクに替えろ」

そして音羽へ視線を戻し、断言した。

「飲み終えたら、連れて帰る」

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