第5章
「家に帰るぞ」
蒼井沢言の口からその一言が落ちた瞬間、そこには有無を言わせない当然さがあった。まるで今日入籍したばかりの他人ではなく、長年連れ添った伴侶に言うみたいに。
新谷音羽は心臓が跳ね、グラスを握る指に思わず力が入る。
――家?
さっきまでいた、あの「家」から逃げ出してきたばかりだ。なら、彼の言う「家」はどこを指す。書類にあった物件のこと?
ほどなくして運ばれてきたのは、温かいミルクだった。白磁のカップからふわりと湯気が立ち、ウイスキーの冷えを少しだけ押し返す。
蒼井沢言は彼女を見ている。急かしもしない。ただ黙って待っていた。薄暗い照明の下、深い瞳はいっそう底が見えない。
見つめられるのが落ち着かず、新谷音羽は仕方なくカップを持ち上げる。小さく口をつけた。温度が喉を滑り、ささくれた神経が不思議と静まっていく。
「一人でこんな場所に来るとは、なかなか度胸がある」
沈黙を破った声には、わずかな揶揄が混じっていた。
「新谷家の門は、そんなに入りにくいのか」
新谷音羽の手が止まり、目を上げる。
――追い出されたことを笑ってる?
唇を結び、籠った声で返した。
「蒼井さん、冗談は……。少し息抜きしたかっただけです」
「そうか」
蒼井沢言は背もたれに預ける。姿勢はくつろいでいるのに、視線だけが刺すように鋭い。
「だが君は、惹かれて腹を立てて、あちこち走り回るくせに、隠れる場所が見つからない子猫みたいだな」
胸の奥を指でつままれたみたいで、頬がかっと熱くなる。悔しくて反論したいのに、その目を前にすると言葉が出てこない。
新谷音羽は視線を落とした。テーブルの上で重なった、彼の手。
長い指、はっきりした骨。手首にはパテック・フィリップ。目立たないのに、ぞっとするほどの高級感。そこから上へ、白いシャツの端正な袖口、喉元、輪郭の深い顎、薄い唇へ――。
ダンディーな大人の男性の匂いが濃い。強くて、危険で、抗いにくい。
見入ってしまった瞬間、冷たい沈香の香りがふっと鼻先をかすめた。だんだん濃くなる。記憶の底に沈んでいた曖昧な夜と、じわじわ重なっていく。
鼓動が勝手に速くなった。
どうして、こんなに馴染む。
「何を見ている」
低い声に引き戻される。
「な、何でも……」
新谷音羽は慌てて顔を背け、カップを持ち上げて誤魔化した。
蒼井沢言の口元が、ほんの一瞬だけ緩んだ気がした。見間違いかと思うほど淡く、すぐ消える。
彼はジャケットの内ポケットから、深紫のベルベットの箱を取り出した。先日届いたブレスレットの箱とよく似たそれを、音も立てずにテーブルへ置き、彼女の前へすっと押しやる。
新谷音羽の呼吸が詰まる。箱を見つめたまま、手が出ない。
「これは……」
「開けろ」
拒めない声だった。
躊躇いながら指先で蓋を上げる。
黒いサテンの上に、ムーンフラワー・ブレスレットと対になるネックレスが静かに横たわっていた。同じ最高級の紫翡翠が花弁の形に磨き上げられ、バーの暗い灯りを受けて、深く妖しく光を返す。
浅田美晴の首元にあった、あの安っぽい模造品が馬鹿らしくなる。
「わたし……受け取れません」
高すぎる。そう言いかけたところで、
「言ったはずだ。式はこちらで手配する」
蒼井沢言は平然と遮る。静かなのに強い。
「妻が身につける装飾も含めてな」
一拍置き、視線が彼女の首元に落ちた。
「俺のものが、安物の模造品で侮辱されるのは好かない」
――知ってる。
林翔太がいつも安いアクセサリーで機嫌を取ってきたことを。
新谷音羽の背筋がぞわりと震えた。彼はいったい、どこまで。
蒼井沢言は立ち上がり、テーブルを回って彼女の横へ来る。高い影が覆いかぶさり、空気が重くなる。
「つけてやる」
拒む暇もなく、ネックレスが持ち上げられた。
冷たい鎖が肌に触れ、新谷音羽は反射的に首をすくめる。
留め具を扱う指は温かく乾いている。ふいに後ろ首をかすめ、細い戦慄が背中を走った。
息をするのも怖くて、呼吸が浅くなる。
沈香の香りが至近距離で、彼女を包み込む。既視感が、波みたいに押し寄せてきて――。
そのとき、耳元に落ちた囁き声。
掠れた低さ。どこか笑っている。
「ここに小さな痣がある。花弁みたいな形だ」
頭の中で、何かが弾けた。
新谷音羽は勢いよく振り返り、蒼白な顔で彼の手首を掴む。指先まで震えて、声も揺れた。
「……どうして知ってるの?」
その痣は隠れた位置にあって、形も特徴的だ。亡くなった母以外、ほとんど誰も知らない。林翔太と五年いても、気づかれたことはない。
たった二度会っただけの男が知っているはずがない。
――例外はあるが。二年前の、あの男。
蒼井沢言の瞳に、ほんの僅かな笑みが走る。彼は手を引かず、むしろそのまま彼女の冷たい指を握り返し、立たせた。
「そんなに驚くか」
表情はいつもの無波。さっきの艶めいた一瞬が、まるで幻だったみたいに。
「あなた、いったい……誰なの」
新谷音羽は震えながら問う。
蒼井沢言はもう片方の手で彼女の頬に触れ、目尻に滲んだ涙を親指で拭った。慰めるような、けれど逃がさない触れ方。
「怖がるな」
低く、確かな声。
「君と面会する前に、新谷家から君の詳細な資料が提出された。縁組では標準手順だ」
一拍置いて、淡々と続ける。
「身体的特徴も、小さな癖も、全部だ。そういう家同士の婚姻なら、珍しくない」
標準手順――。
新谷音羽は呆然とした。
自分が父の目に、値札と説明書つきの商品として映っている。その事実を、冷たい手で突きつけられた気分だった。
荒唐無稽で残酷で、それでも新谷邦夫ならやりかねない。胸を荒らした疑念は、その理由で無理やり押し込められる。
彼は蒼井沢言だ。知ろうと思えば何だって調べられる。きっと、自分が考えすぎただけ――。
それでも消えない既視感と、あの夜と同じ沈香の香りは、どうしたらいい。
新谷音羽の顔から強張りが少しだけ薄れたのを見て、蒼井沢言は手を離し、一歩引く。上位者の距離へ、きれいに戻った。
「ミルクは飲み終えたな」
空のカップに目を落とし、命令の調子で言う。
「帰るぞ」
