第60章

蒼井沢言は無理強いせず、リンゴを脇へ置いた。沈んだ眼差しで彼女を見つめ、静かに導く。

「……急すぎるって、思ったか」

唇を噛んだまま、彼女は小さく頷いた。声には、かすかな震えが混じる。

「私、やっと仕事が動き出したばかりで……木下夫人に紹介していただいた案件も、まだ一つも形にできてなくて。それに……」

それ以上は言えなかった。

口に出せない恐怖が、喉の奥に絡みついている。

――自分は、幸せな子ども時代を過ごしていない。愛の薄い家で育った。

だから「いい母親」がどんなものか、そもそも知らない。

蒼井沢言は、彼女の瞳の奥の怯えと後退を見てしまい、心臓をきゅっと握りつぶされたような...

ログインして続きを読む